古典や日本史文化ジャンルで、とっつきにくさNo.1と言えば「和歌」でしょう。
いや、それは現代においても通じる話ですかね。
小説家は毎年一定数の方がデビューしますが、歌人が話題になることはほとんどありません。
掛詞や枕詞、そして数々のお約束やタブーなど。成約が圧倒的に多いのが敬遠されがちな理由でしょう。
振り返ってみれば最古の歌集である万葉集の時代は素朴な歌が多数派でした。
時代は進み中世の【新古今和歌集】ともなると、かなりの技巧が駆使されるようになります。
今回は、この歌集の成り立ちや中身を、できるだけ平易に垣間見ていきたいと思います。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
八番目の勅撰和歌集
新古今和歌集は、八番目の勅撰和歌集です。
一応、一番目から七番目まで記しておきますと……。
①古今和歌集 905-914年 醍醐天皇
②後撰和歌集 951-959年 村上天皇
③拾遺和歌集 1005-07年 花山院
④後拾遺和歌集 1086年 白河天皇
⑤金葉和歌集 1126年 白河院
⑥詞花和歌集 1151年頃 崇徳院
⑦千載和歌集 1188年 後白河院
⑧新古今和歌集 1205年 後鳥羽院
成立年代の右に記されているのが、作るように命じられた方で、新古今和歌集は後鳥羽上皇が藤原定家ら六人の選者に作らせました。
後鳥羽上皇が院政を始めたのが建久9年(1198年)1月17日なので、それから約7年後のことになりますね。
※以下は後鳥羽上皇の生涯まとめ記事です
なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年
続きを見る
その内容は全二十巻という大作。内訳は
・春の上下
・夏
・秋の上下
・冬
・賀
・哀傷
・離別
・羇旅(きりょ)
・恋の一~五
・雑の上中下
・神祇
・釈教
となっています。
いやぁ、ボリューム感が凄いですよね。
哀傷の巻は死別、離別の巻は相手が生きている別れを題材にした歌となっております。おそらく、宮中では「死」を穢れとみなすため、あえてぼかした表現にしたのでしょう。
また、神祇の巻はお参りや神事など、釈教の巻は仏教の教えや価値観を表した歌がまとまっています。
後鳥羽上皇の気合がムンムン
収められている歌は約二千首。
かなり多く感じますが「一巻に平均百首ずつ」と考えると、そうでもない気がしますね。
この壮大さは、後鳥羽上皇の情熱の表れでもあります。
歴史上で見る後鳥羽上皇はやはり「承久の乱に敗れて流された」というイメージが強いですが、同時にいろいろな芸術に秀でていた方でした。
承久の乱~なぜ後鳥羽上皇は義時へ戦を仕掛けたのか 鎌倉幕府を舐めていた?
続きを見る
新古今和歌集の編纂についても、並々ならぬこだわりを抱いています。
例えば、選者を任命した翌年、選者の一人だった寂蓮法師が入寂してしまったのですが、代任をせず残りの五人で編纂を続けさせました。
数合わせでテキトーな人選をするより、そちらのほうが良い歌集にできると考えたのでしょう。
さらに、選者が選んだ歌を上皇自身が三回かけて厳選しています。
その情熱は、承久の乱に敗れて隠岐へ流された後も続き、後鳥羽上皇は新古今和歌集をさらに磨き上げるため、数を絞って「これこそ真の勅撰和歌集だ」と言っていました。
後鳥羽上皇にとって、新古今和歌集はまさにライフワークだったのでしょう。
現在「新古今和歌集」として伝わっているのは、後鳥羽上皇が三回目の編纂をした時期のものです。
編纂の時期を一~五段階に分けているのですが、現代で底本とされているのは二番目の時期のもので「二類本」と呼ばれています。
この系統の写本は現存数が最も多く、当時から数多く出回っていたと思われます。
隠岐で作られたものは「隠岐本」として区別されていますし、上皇の編纂前のものなども別バージョンとしているので、収録数を”約”二千首と表現しているんですね。
※続きは【次のページへ】をclick!