江戸

「藩主はつらいよ……」酒や乱心、暴力でお取り潰しになった江戸期の大名たち

「ストレス社会」と言われるようになって久しいです。

あたかも現代に特有の言い方ですが、それでは昔の人にはストレスがなかったのか?といえば、もちろんそんなことはありません。

万治元年(1658年)9月10日は、松下長綱が亡くなった日です。

彼は三春藩主だったのですが……亡くなるまでに、少々一悶着ありました。

今回は長綱さんをはじめ、江戸時代のストレスに対処しきれなくなった(かもしれない)藩主たちに注目してみたいと思います。

 

藩主になって14年 幕府から突然問いつめられて

三春エリアは、元々伊達政宗の正室・愛姫の実家である田村家が治めていた土地でした。

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しかし愛姫が一人娘だったこと、田村家が秀吉の小田原征伐に参戦しなかったことで、同地を手放さざるを得なくなってしまいます。

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田村家は愛姫の次男に家を継がせることができましたが、平安時代から続いたとされる坂上田村麻呂末裔の血は三春から離れてしまうことになりました。

そのため、三春はあまりこの土地に馴染みのない人によって統治されていきます。

秀吉存命中から江戸時代の初期は蒲生家、次は「賤ヶ岳七本槍」の一人である加藤嘉明の息子・加藤明利。

そして、明利の次にやってきたのが松下長綱でした。

長綱は元々二本松藩主である父の跡を継いでいたのですが、「まだ若いから」というだけの理由で三春に移封されています。

当時18歳。
若いといえば若いですが、江戸時代の基準からすれば立派な大人です。この辺からもうキナ臭い感じがしますね。

そしてそれは長綱が藩主になって14年も経ってから、いきなり起きました。

「アンタ、乱心してヒドイことしたんだって? 改易ね^^」(※イメージです)

幕府から突然イチャモンをつけられて、クビを切られてしまったのです。

寛永二十一年(1644年)、長綱、34歳のときでした。

不幸中の幸いというべきか。

切腹や斬首を申し付けられることはなく、長綱は配流先の土佐で静かに暮らしていたようです。

しかし、長綱は本当に乱心したのでしょうか?

実際は別の理由が囁かれたりしております。

長綱と入れ替わりで二本松藩主になった明利が、兄の起こしたお家騒動に連座して改易され、縁戚にあたる長綱もとばっちりを喰らったのでは? という説があるのです。

親戚同士で藩を入れ替えたのは幕府のほうですから、それでもやっぱり不可解――というか、とにかくめちゃくちゃですね。

江戸時代の前半は改易が多いことで有名ですが、実はその中には、長綱のように不可解な「発狂」もしくは「乱心」の二文字で片付けられているものが複数存在します。

いくつか実例を挙げてみましょう。

 

乱心で改易された大名

・土屋直樹 久留里藩主(千葉)

武田家滅亡の際、最後の最後まで勝頼に付き従い、自害する時間を稼いだといわれる土屋昌恒の子孫にあたります。

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延宝七年(1679年)に「狂気」を理由として改易の上、久留里城も破却されるという徹底した始末をされています。

しかも「祖先が勇敢だったから」という理由で、長男が3000石の旗本として家名を残すことを許されているというワケワカメな状態。

直樹自身も、長男のもとで余生を送りました。

堀通周ほりみちちか 玉取藩主(茨城)

延宝七年(1680年)に突如錯乱して家臣を斬りつけた&無嗣断絶という理由で改易されました。

しかし、後年に実弟の利雄が家名を存続することを許されています。

・前田茂勝 八上藩主(兵庫)

豊臣家では五奉行を務めていた、前田玄以の息子です。父の跡を継いだ後、八上に移封されました。

真面目に仕事をせず遊び呆け、しまいには「発狂」して家臣をブッコロしまくったから――そんな理由で改易されたのですが……。

実は、茂勝が敬虔なキリシタンであったことが関係していると思われます。

茂勝が改易されたのは慶長十三年(1608年)。

秀忠が将軍職を継いでたった三年目ですから、幕閣は一つでも不安要素を潰しておきたかったのではないでしょうか。

その後、行き場をなくしたキリシタンたちが大坂の陣(1614-1615年)で豊臣方についたり、後に島原の乱(1637年)が起きてしまうので、大名を一人処分したくらいで信仰心がなくなるわけはないんですけどね。

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・森衆利あつとし 津山藩主(岡山)

二代目の森長継が子沢山で、その二十四子(!)という順番に生まれたため、甥っ子の末期養子になるという不思議な運命をたどっています。

しかし、藩主の座を継いだ直後、将軍へ挨拶をしに行く旅の途中で「発狂」したことになり、元禄十年(1697年)7月、改易に処されました。

道中で「犬小屋の管理が杜撰だ」という理由で切腹した武士のことを知り、【生類憐れみの令】に関する疑念を抱いて、幕政を批判したというのが「発狂」の真相のようです。

その後は兄の元に預けられましたが、33歳の若さで亡くなっています。もう、きな臭いとしか……。

こうしてみると「発狂・乱心」は体のいい言葉として使われていた感がありますね。

まあ「狐が憑いて気が狂った」とかいう理屈がまかり通る時代のことですから、ある意味、大名自身の名誉を守ることになるのかもしれませんが。

ちなみに、情状酌量すべきでないと思われるケースでは「発狂」ではなく、もっと具体的な理由が伝わっています。

例えば、以下のようなものです。
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