江戸時代

市街の8割が燃えた 空前の火災「天明の大火」は放火犯の仕業だった

泰平の世――と思いきや、数々の災害に見舞われていた江戸時代

全国的には四大飢饉や富士山の宝永大噴火、さらには浅間山の噴火などが有名ですが、江戸と並ぶもうひとつの中心地・京都でも大きな災害が起きています。

天明8年(1788年)1月30日に発生した【天明の大火】です。

【TOP画像】天明の大火における被害や経過を記した『花紅葉都咄』/国立国会図書館蔵より

 


出火元は宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)

天明の大火は別名も多く、以下のような呼び方もあります。

◆京都大火

◆団栗焼け(どんぐりやけ)

◆申年(さるどし)の大火

◆都焼け(みやこやけ)

それぞれ場所や干支から来ている呼び名ですが、「団栗焼け」は出火元となったのが鴨川東岸・宮川町団栗辻子(どんぐりのずし)という地点の空き家だったことに由来します。

未明に何者かによって放火されたそうで、トンデモナイ放火魔がいたものです。

この日は風も強く、あっという間に洛中へ燃え広がりました。

深夜についた火は丸々一日以上かけて燃え広がり、広範囲にわたって京の街を焼き尽くします。

東は河原町・木屋町

北は上御霊社・鞍馬口通り・今宮御旅所北辺

西は智恵光院通り・大宮通り

南は東西本願寺の北辺

上記の広大な区域に壊滅的な被害を与えました。

現代でも京都市の中心区域と呼べる範囲であり、当時は「市街の8割が燃えた」とまで言われています。

 


寺院は201ヶ所 神社37ヶ所が被災した

もちろん、朝廷や公家もタダでは済みません。

禁裏(現職の天皇がいる皇居)
仙洞御所(上皇の御所)
公家屋敷
二条城
所司代屋敷
東西両町奉行所

といった重要拠点も被災しました。

実際の被害を見てみますと寺院は201ヶ所、神社37ヶ所が被災したという記録があります。

これが一体どれぐらいの規模なのか?

京都府神社庁のホームページによると、現在、京都市内にある神社は217軒。iタウンページに載っているお寺の数は1242軒です。

現代と比較してみても、かなりの寺社が被害を受けたことがわかりますね。

一説には「応仁の乱のときよりも、天明の大火による被害のほうが大きかった」ともいわれています。

「京都では、”先の戦争”というと応仁の乱を指す」なんてジョーク(?)がありますが、天明の大火のほうが深刻だったんですね。

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焼失家屋は36,707戸 死者数は不明ながら

死者については、幕府の公式記録によると150人らしいのですが……「この規模の火災にしては、あまりに少なすぎる」という疑念を持たれています。

この数字は、清浄華院(しょうじょうけいん・京都市上京区)の天明の大火の供養塔にも添えられていて、もしかすると同院へ運ばれた遺体の数が150体だったのかもしれません。

他にも被害者を弔ったお寺はたくさんあったでしょうしね。

実際、幕府以外の記録では1,800人、あるいは2,600人という数字もあるようです。

焼失家屋は36,707戸に及んでおり、犠牲者に関しては把握しきれてない分を考慮すると、2,600人を超えていても不思議じゃないでしょう。

ちなみに大河ドラマでも取り上げられた【禁門の変(長州vs会津&薩摩)】では、戦いの後に「どんどん焼け」という大火が起き、このときは約28,000戸が焼失しております。

いずれも凄まじい規模だったことが窺い知れます。

なお、昨今、人気の高い画家・伊藤若冲も、天明の大火に巻き込まれて自宅を焼失。寛政12年(1800年)に亡くなりました。

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