江戸時代 べらぼう

市街の8割が燃えた空前の火災「天明の大火」は応仁の乱よりも被害甚大だった?

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焼失家屋は36,707戸 死者数は……

死者については、幕府の公式記録によると150人らしいのですが……この規模の火災にしては、あまりに少なすぎるため、疑念を持たれています。

この数字は、清浄華院(しょうじょうけいん・ 京都市上京区)にある天明の大火の供養塔に添えられているものでもあるため、もしかすると同院へ運ばれた遺体の数が150体だったのかもしれません。

他にも被害者を弔ったお寺はたくさんあったでしょうしね。

実際、幕府以外の記録では1,800人、あるいは2,600人という数字もあるようです。

焼失家屋は36,707戸に及んでおり、犠牲者に関しては把握しきれていない分を考慮すると、2,600人を超えていても不思議ではありません。

ちなみに大河ドラマでも取り上げられた【禁門の変(長州vs会津&薩摩)】では、戦いの後に「どんどん焼け」という大火が起き、このときは約28,000戸が焼失しました。

なお、画家として有名な伊藤若冲も、天明の大火に巻き込まれて自宅を焼失しています。

 


囲米を使って食料を確保する

この規模の被害ですので、復興ももちろん大変でした。

現代でも同じですが、こういった大災害が起きた場合

・焼け出された人々の衣食住確保

・建物の再建

・治安維持&防犯

と、全ての事柄を同時にやらなければいけません。

当然、金・物・人のすべてが必要になりますので、幕府にも事の次第が報告されました。

2月22日には、幕府から米3000俵と銀60貫目が京都市民へ貸し付けられています。

返済については再来年から&米での支払いとし、かつ幕府に返すのではなく新たな囲米にされました。幕府からみると大盤振る舞いですね。

建造物などの復興は、火が収まって10日前後が経った2月中旬から始まりました。

混乱を防ぐための措置として、復興用資材が流入制限されたり、復興に注力するために株仲間などを一時停止したり。

様々な工夫を行った結果、この規模の災害としては比較的早く、京の町は混乱から立ち直ることができたようです。

さらに、6月には金についての目処がつきました。

米の買い占めをやって幕府に財産没収された近江屋忠蔵という人物の財産を売り払った金のうち、二万両を低金利で貸し付けたのです。

さらに利息の9/10は新たな米穀の資金として運用し、蓄えて「囲米(かこいまい)」にするよう命じられました。

囲米とは、今でいうところの救援物資倉庫のようなもの。

元々は戦国時代に兵糧を蓄えていたのが始まりで、戦がなくなった江戸時代には、冷害や天災への備えとして食料を備蓄したものを指します。

米の価格を調整する目的もありましたが、江戸時代における災害の多さを考えると、被災時へ備えるウエイトのほうが大きかったでしょう。

幕府や大名家が備蓄したところが「囲米」。

農村部での自主的な備蓄や、お金持ちの寄付によるものが「義倉(社倉)」というように、少々呼び名が変わります。

一方、この火事は「京焼け手まり唄」の題材となり、流行したといいます。

鞠つきをしながら歌うものですが、なんとものんきというかたくましいというか。

子供が悪気なく歌い始めたのが広まったのでしょうね。

ただし、御所の再建などを巡っては、朝幕関係に火種を残しました。

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