江戸時代 べらぼう

市街の8割が燃えた空前の火災「天明の大火」は応仁の乱よりも被害甚大だった?

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天明の大火
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ぜいたくな御所など建てられません

ときの帝は光格天皇

光格天皇/wikipediaより引用

明和八年(1771年)生まれで安永九年(1779年)即位ですから、天明の大火が起きた天明八年(1788年)時点では18歳の若き天皇です。

上記の通り、この火災では皇居や女院の御所なども被害を受けたため、それぞれ仮の御所へ移り住むことになりました。

・光格天皇は聖護院

・義母といえる立場の後桜町上皇は青蓮院

・後桜町上皇の生母・青綺門院(せいきもんいん)は知恩院

といった感じで、光格天皇の御所については、再建までに数年の時間を要しています。

というのも再建の規模について、朝廷と幕府が対立してしまったからです。

朝廷側は、この機会に平安時代の様式にのっとった紫宸殿と清涼殿を再建してほしいと希望しました。

ざっくりいうと、紫宸殿は儀式場、清涼殿は天皇の住まいです。

しかし、ときの老中首座であり寛政の改革で知られる松平定信は大反対。

松平定信/wikipediaより引用

「ただでさえ噴火や洪水や大飢饉で幕府は財政難に陥っているのに、ぜいたくな御所など建てられません! 無理に再建しようとすれば、民の血脂を絞るようなものです!!」

定信は同年5月に御所だけでなく京都市街全体の復興責任者として上洛していたため、朝廷側と文字通りの直接対決となりました。

上洛前に定信は将軍・家斉とも相談しており、家斉としては早急に御所の造営を命じたかったようです。

しかし定信は前述の意見により家斉を説得し、朝廷に伝える許可を取り付けていました。

定信は「まずは陛下の住まいを仮普請し、その後元通りの(質素な)御所を作ればよろしい」という考え。

一方で光格天皇を始めとする朝廷は「この機会に朝廷の威信を取り戻すため、古例にのっとった御所を作ってほしい」と希望していました。

完全に平行線ですね。

 


両者の仲は【尊号一件】の確執に発展

この件は数ヶ月にわたって交渉され、最終的には10月に朝廷の要望通りの御所が再建されることが決定。

押し切られて莫大な費用を捻出しなければならなくなった定信は、その後もずっと腹を立て続け、京都所司代や京都町奉行へ

「今後、朝廷側が従来行っていなかった儀式や新しい制度をやりたいと言い出しても、認めないように」

と命じています。

これは、朝廷の権威向上に取り組んでいた光格天皇や朝廷と真っ向から対立する意思を示したも同然。

この大火及び再建とほぼ同じ時期に、定信と光格天皇は【尊号一件】と呼ばれる確執を起こしているので、お互いにかなりイライラしていたと思われます。

定信の主君である将軍の権威は、天皇から与えられたものなのですから、もうちょっと柔軟な返事をしたほうが良さそうですけれども。

定信は幕府の威光を重視する傾向が強すぎて、皇室・朝廷・民が後回しになっているように見えるのがなんともいえませんね。

寛政二年(1790年)に御所が再建され、この年11月に光格天皇が御所へ戻っており、

寛政五年(1793年)に尊号一件について光格天皇が引く形で収まっている

という二点を考えると、御所と尊号が等価交換されたような感じでしょうかね。

尊号一件については、以下の光格天皇・後桜町上皇の記事でも触れていますので、よろしければ併せてご覧ください。


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長月 七紀・記

【参考】
藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中 (中公新書)』(→amazon
国史大辞典
世界大百科事典

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