『初代中村仲蔵の斧定九郎』勝川春章/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

なぜ勝川春章は歌麿や北斎を世に送り出した偉大な絵師なのに本人は無名なのか

江戸時代の絵師と言えば?

そう問われて真っ先に思い浮かべるのは葛飾北斎であったり喜多川歌麿であったり、あるいは歌川広重などでしょう。

このうち喜多川歌麿は大河ドラマ『べらぼう』で染谷将太さんが演じ、主役の蔦屋重三郎(横浜流星さん)と組んで派手に活躍するため、今後もさらに知名度アップ――。

と同時に、現代ではほとんど知られておらず、ドラマを機に一気に注目される方がいます。

勝川春章(かつかわしゅんしょう)です。

この春章、喜多川歌麿の美人画に強い影響を与えただけでなく、同じく歌麿の師匠的存在だった北尾重政とはご近所さんの絵師仲間でしたが、重政にしてもほとんど名前を知られていない。

しかし、空前の浮世絵ブームの下地を作ったのはこの二人でした。

ドラマでは前野朋哉さんが演じる勝川春章とは、一体どんな人物だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 

舌を噛みそうな筆名・春章(しゅんしょう)

勝川春章とは一体どんな絵師なのか?

名前の「しゅんしょう」からして非常に発音し辛く、『べらぼう』の撮影現場でも主役の横浜流星さんが苦戦していることが公式サイトに記されています。

◆葛飾北斎の師匠で、当代一の役者絵師 勝川春章(かつかわ・しゅんしょう)(→link

実は後世に伝わる浮世絵師の名前は筆名であり、日常生活では本名で呼びあうものでした。

例えば春章の場合、本名は「要助」ですので、日頃は、

「いいねェ、要助さんの絵は」

「おーい、要の字よォ」

とでも呼びあっていたことでしょう。

しかし版元の蔦屋重三郎であれば「春章(しゅんしょう)」と呼ばねばどうにもなりませんので、横浜流星さんも頑張るしかない。頭の片隅に入れてドラマを楽しむのもオツかもしれません。

そして無名な勝川春章だからこそ、その本題に入る前に一つ触れておきたい歴史事例があります。

戦国時代の織田信長三好長慶です。

現代であれば小学生から大人まで知らない者はいないであろう信長に対し、戦国史ファンでもなければほとんど馴染みがない三好長慶。

これも不思議な話でして、織田信長の天下統一構想は、それ以前の権力者であった三好長慶の構想を参照しているとも指摘されます。

両者とも当時は絶大な実力者。

しかし、様々な要因が重なった結果、現代では織田信長の知名度だけが圧倒的に高くなってしまった。

歴史にありがちな事象ではありますが、勝川春章も三好長慶タイプと言えば、その人物像を捉えやすくなるかもしれません。

なぜなら春章は、江戸の浮世絵文化が華々しく最高潮を迎える、その大変動前夜に活躍したため、現代では目立たなくなった人物と言えるのです。

大ムーブメントを起こした人物こそ『べらぼう』の主役・蔦屋重三郎であり、風紀を取り締まる側の松平定信であり、春章は彼らより一歩先にいたのですね。

いわば浮世絵文化の先駆けである、勝川春章の生涯、あらためて振り返ってみましょう。

 

勝川春章と北尾重政はお向かいさん同士

勝川春章は享保11年(1726年)、あるいは寛保3年(1743年)生まれとされます。

なぜ生年説に17年もの幅があるのか?

というと、2つの享年説(50か67)があり、没年の寛政4年(1793年)から逆算したため、生年もその2つの年だと目されているのです。

姓は藤原、名は正輝、字を千尋と言います。

当時のクリエイターは活動内容に応じて名乗りが変わるため、春章も

・旭朗井(きょくろうせい)

・李林

・酉爾(ゆうじ)

・六々庵

といった号が伝わっています。

春章は、江戸の文人らしく、様々な文芸を好んだ、粋で教養溢れる人物でした。

肉筆美人画を得意とする宮川春水に弟子入りすると、名乗りを「春章」に改名。

最も有名な名前が春章であるということは、最も才能を発揮したのが絵画だったのであり、姓は、宮川や勝宮川を経て、勝川に落ち着きました。

彼に関して何より興味深いのが、交友関係でしょう。

前述の通り、近所には同じく『べらぼう』で重要な文人である北尾重政がいました。

※以下は北尾重政の関連記事となります

北尾重政
北尾重政は重三郎や歌麿に影響を与えた『べらぼう』の重要人物 その生涯とは?

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ドラマでは橋本淳さんが演じ、マルチ文化人として蔦屋重三郎や喜多川歌麿にも影響を与えたとされる重政。

彼はもともと春章と家が近所同士で親しく、共に絵を描き切磋琢磨していった仲だったのです。

史実だけでなくドラマにおいても、春章と重政は仲良く交流するシーンが描かれるとのことで、そうした縁から春章が重三郎や歌麿とつながっても不思議ではありません。

江戸の文人というのは、人間関係が重要でした。

例えば春章は、壺の形をした画印を用いたため「壺屋」とも呼ばれています。

元々は寄宿していた地本問屋(じほんどいや / じほんどんや)・林屋七右衛門のものであり、この呼び名から彼が地本問屋と付き合いが深いことがわかります。

同じく地本を扱う蔦屋重三郎を相手に、林屋が春章のことを話題にしても何ら不思議はないでしょう。

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