大正8年(1919年)1月14日は広岡浅子の命日です。
朝ドラ『あさが来た』のモデルであり、実在の女性実業家として知られた存在。
劇中では、女優の波瑠さんが演じ、ときに懐へ拳銃を忍ばせながら九州の炭坑に乗り込むのですから、まさにど根性の持ち主として描かれました。
しかも、これがフィクションではなく、史実なのですから歴史好きでなくてもたまらないでしょう。
著作活動における彼女のペンネームも洒落っ気たっぷりです。
七転び八起きを超える「九転十起生(きゅうてんじっきせい)」。
文字通り9回転んでも10回起き上がろう!という気概であり、その名に負けじと幕末から明治、大正と激動の時代を駆け抜けています。
しかも商売だけでなく女子教育にも情熱を注いだのですからとどまるところを知りません。
本稿で、史実の広岡浅子を振り返ってみましょう。
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加島屋・三井家に生まれる
広岡浅子の実家は、豪商三井家。
家伝によれば、平安時代まで遡れる家系だそうで、大いに栄えたのは江戸期以降です。
関西の商人ともなれば、大名貸しをするものですが、三井家では家訓で禁止されていたとか。
例えば薩摩藩・調所広郷の強引な借金帳消しをふまえますと、それも賢い選択だったと思えます。
※以下は調所広郷の生涯まとめ記事となります
財政を立て直したのに一家離散!調所広郷が幕末薩摩で味わった仕打ち
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嘉永2年(1849年)、そんな京都の大商人の家で浅子は生まれました。
父は6代目・三井高益で、その四女。黒船来港から遡ること4年という時代であり、彼女の幼名は照でした。
ドラマとは違い、浅子は妾腹の子であり、3歳になってから、7代目・高喜の妹として、三井家の正式な一員とされました。
義兄といえども、26歳の違いがありますから、親子ほどの年の差です。ちなみに姉の春は、異母姉となります。
幼い浅子は、裁縫、茶の湯、生け花、琴、三味線、習字等を習います。
しかし、彼女が好きなことは「四書五経」を含めた読書、そして相撲です。
女の子だから相撲はやめなさいとたしなめられた直後、浅子は髷をぷっつりと切り落としてしまったのだとか。
気の強さは、幼いころからのものでした。
土方相手の奮闘シーンは歴史的背景があった
浅子が育つ京都の街は、幕末の動乱へと巻き込まれてゆきます。
三井家が昵懇にしていたのは長州藩。そのためか新選組に目を付けられ、金を貸すように迫られたそうです。
京都を歩き、商家の話を聞いてみますと、未だにアンチ新選組の声を聞くことがあります。
観光の目玉だから新選組グッズを置いてはいるけれども、本音は未だに嫌い。
「うちのご先祖も、たかられて苦労したもんやで」と聞いたことすらあります。
『あさが来た』でも、主人公・あさが、土方歳三相手に奮闘するシーンがあります。
あのエピソードも歴史的背景が感じられますね。
土方歳三35年の生涯まとめ~幕末を生き急いだ多摩のバラガキが五稜郭に散る
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しかし京都の人を苦しめたのは、新選組だけではありません。
他ならぬ長州藩も【禁門の変】はじめ、様々な紛争劇で街に被害を及ぼしており、京都は常に政治的な動乱に巻き込まれておりました。
禁門の変(蛤御門の変)が起きた不都合な真実~孝明天皇は長州の排除を望んでいた
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命運分かれた姉妹の嫁ぎ先
混乱する京都の中で、広岡浅子らはたくましく生きてゆきました。
慶応元年(1865年)。
数え17になった浅子は、大阪は広岡信五郎のもとへ嫁ぐこととなります。
「戻れば尼になれ」と実家からキツく告げられながら、姉の春と共に三十石船で淀川をくだったのです。
負けん気の強い浅子は、尼になることが嫌というよりも、何があっても負けへんでという気力で大阪を目指しました。
この姉妹、『あさが来た』では非常に仲が良く、互いに影響しあいます。
ただし、これはあくまで脚色。ドラマの中で春が嫁いだ天王寺屋が明治維新で没落したところまでは、史実の通りです。
しかし、その先はドラマと異なり、立ち直ることはできず、明治9年(1827年)、27歳の若さで亡くなってしまいました。
もしも嫁ぎ先が反対であったら……?
姉妹の命運が逆転していたかもしれません。
運命とは、皮肉なものです。浅子の嫁ぎ先は、気の強い彼女にとってぴったりの家でした。
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