歴史戦国でワクワクしたい!

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

あさが来た 明治・大正・昭和時代

朝ドラあさが来たモデル・広岡浅子69年の生涯をスッキリ解説!

投稿日:

朝ドラ『あさが来た』のモデルは、実在の女性実業家・広岡浅子(1849-1919年)です。

劇中では、女優の波瑠さんが凛と演じ、ときに懐へ拳銃を忍ばせながら九州の炭坑に乗り込むのですから、まさにど根性の持ち主。
てっきりフィクションかと思いきや、これが史実なのですから歴史好きでなくてもたまりません。

著作活動における彼女のペンネームも洒落っ気たっぷりです。

七転び八起きを超える「九転十起生(きゅうてんじっきせい)」。

文字通り9回転んでも10回起き上がろう!という気概であり、その名に負けじと幕末から明治、大正と激動の時代を駆け抜けました。

しかも商売だけでなく女子教育にも情熱を注いだのですからとどまるところを知りません。

広岡浅子――史実の彼女はいかなる生涯を送ったのでしょうか。

 

加島屋・三井家に生まれる

広岡浅子の実家は、豪商三井家。
家伝によれば、平安時代まで遡れる家系だそうで、大いに栄えたのは江戸期以降です。

関西の商人ともなれば、大名貸しをするものですが、三井家では家訓で禁止されていたとか。
例えば薩摩藩・調所広郷の強引な借金帳消しをふまえますと、それも賢い選択だったと思えます。

【関連記事】調所広郷

三井家発祥の地(三重県松阪市)/photo by もんじゃ 
wikipediaより引用

嘉永2年(1849年)。
そんな京都・大商人の家で浅子は生まれました。

父は6代目・三井高益で、その四女。黒船来港から遡ること4年という時代であり、彼女の幼名は照でした。

ドラマとは違い、浅子は妾腹の子です。
3歳になってから、7代目・高喜の妹として、三井家の正式な一員とされました。
義兄といえども、26歳の違いがありますから、親子ほどの年の差です。ちなみに姉の春は、異母姉となります。

幼い浅子は、裁縫、茶の湯、生け花、琴、三味線、習字等を習います。
が、彼女が好きなことは「四書五経」を含めた読書、そして相撲です。

女の子だから相撲はやめなさいとたしなめられた直後、浅子は髷をぷっつりと切り落としてしまったのだとか。
気の強さは、幼いころからのものでした。

 

スポンサーリンク

土方相手の奮闘シーンは歴史的背景があった

浅子が育つ京都の街は、幕末の動乱へと巻き込まれてゆきます。

三井家が昵懇にしていたのは長州藩。
そのためか新選組に目を付けられ、金を貸すように迫られたそうです。

京都を歩き、商家の話を聞いてみますと、未だにアンチ新選組の声を聞くことがあります。

観光の目玉だから新選組グッズを置いてはいるけれども、本音は未だに嫌い。

「うちのご先祖も、たかられて苦労したもんやで」
と聞いたことすらあります。

『あさが来た』でも、主人公・あさが、土方歳三相手に奮闘するシーンがあります。
あの逸話にも、きちんとした歴史的背景があったのですね。

しかし京都の人を苦しめたのは、新選組だけではありません。

他ならぬ長州藩も「禁門の変」はじめ、様々な紛争劇があり、京都は政治的な動乱に巻き込まれておりました。

禁門の変(蛤御門の変)で西郷隆盛が初陣!孝明天皇の意図を探れば事件の真相が見えてくる

 

命運分かれた姉妹の嫁ぎ先

混乱する京都の中で、広岡浅子らはたくましく生きてゆきました。

慶応元年(1865年)。
数え17になった浅子は、大阪は広岡信五郎のもとへ嫁ぐこととなります。
「戻れば尼になれ」と実家からキツく告げられながら、姉の春と共に三十石船で淀川をくだったのです。

負けん気の強い浅子は、尼になることが嫌というよりも、何があっても負けへんでという気力で大阪を目指しました。

この姉妹、『あさが来た』では非常に仲が良く、互いに影響しあいます。

ただし、これはあくまで脚色。
ドラマの中で春が嫁いだ天王寺屋が明治維新で没落したところまでは、史実の通りです。
しかし、その先はドラマと異なり、立ち直ることはできず、明治9年(1827年)、27歳の若さで亡くなってしまいました。

もしも嫁ぎ先が反対であったら……?

姉妹の命運が逆転していたかもしれません。

運命とは、皮肉なものです。
浅子の嫁ぎ先は、気の強い彼女にとってぴったりの家でした。

 

スポンサーリンク

ご一新で大阪経済大混乱や!

浅子が嫁いだ先の信五郎は、肩を突いただけで倒れてしまいそうな「つっころばし」タイプと言いましょうか。

おっとりしていて、遊ぶことが大好き。
そんな人でしたから、しっかり者の父・加島屋当主の正饒が、動乱の世をなんとか生き延びようと奮闘します。だからこそ信五郎もノホホンとしていたのかもしれません。

しかも、嫁いで来た嫁は男勝りで気が強い。まさに彼にとっては願ったり叶ったりです。

「浅子にはかまいまへん」
動乱の最中、彼はそう言いながら浅子に頼ってきたようなものでした。

慶応年間の日本は、急速に維新へと突き進んでゆきます。
商人もこれに乗っかることになります。

ところが、です。
倒幕を目指す西軍には、軍資金がありませんでした。

相楽総三と赤報隊は時代に散った徒花~西郷隆盛に見放された草莽の志士たち

明治以降もしばしば問題となった、商人と明治政府の結託の萌芽はこの辺りから始まっておりました。

浅子の実家である三井家も、こうした商機にノッた成功例の一つです。

「鳥羽・伏見の戦い」はじめ、軍資金を提供し【政商・三井】としての道を歩みだすのです。
稼業の呉服業は、分裂して「三越」となり、百貨店事業に乗り出しました。

しかし、京大阪の商家にとって、新政府の要求は無茶苦茶でもありました。

金を出せば、苗字帯刀すら許すと言われる一方、金を出し渋れば「逆賊め!」と罵倒され、脅されたのです。

 

ご一新で大阪経済大混乱や!

新政府の意向で、大阪経済に大打撃を与えたのが「銀目廃止」でした。
読んで字の如く【銀の貨幣を廃止】するというものです。

確かに、政策としては真っ当な在り方ですが、それまで銀で商売をしてきた大阪や京都にとっては、降って湧いた大災難でしかありません。

流通停止に伴い「銀札」が紙くずになるのでは?
そんな風に思った人々がパニック状態になって、商家にドッと押し寄せたのです。

必然的に銀相場も大暴落。
商家の金銀は底を尽き始め、この衝撃を乗り越えられない家は潰れるほかありませんでした。

さらに廃藩置県も大きな痛手でした。
大阪商人に借金をしていた大名家が消えてしまい、言わば借金チャラにされてしまったのです。

大阪経済は、息も絶え絶えになるほどの大打撃を受けました。
こうした混乱の最中、浅子の義父・正饒も亡くなってしまいます(慶応4年・1868年)。

信五郎は養子であり、当主は数えで26歳の正秋。勢い戦力となったのが広岡浅子でした。

維新動乱の最中、彼女は加島屋のために立ち上がりました。

宇和島藩が借金を申し込んできた時、藩邸にまで乗り込みました。
「これ以上は貸せない!」
そう言い張る浅子は、足軽部屋に監禁されてしまいます。

ただし、一晩経っても意気軒昂な浅子を見て、宇和島藩も「この若奥様は説得できない」と折れます。




スポンサーリンク


浅子がいかに豪快で、度胸があったか。
幕末に戦っていたのは、武士だけでもなければ、男性だけでもなかったのです。

次のページへ >



-あさが来た, 明治・大正・昭和時代

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2018 All Rights Reserved.