ブリンマー・カレッジ在学時の津田梅子/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

津田梅子が6才で渡米し帰国後に感じた絶望~それでも女子教育に生涯を賭けて

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津田梅子
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贅沢だ。
猿真似だ。
なにかとそんな批判を浴びた鹿鳴館時代は、これを機に終わりへと向かうのでした。

伊藤は梅子を教育へと誘ったものの、女性の権利は理解していなかったのでしょう。

日本そのものがそうでした。

津田梅子の同志である下田歌子や捨松は、マスコミのスクープにさらされ心を痛めています。

物言う女の苦しみに、梅子は疲れていました。日本を離れることを望み始めたのです。

そんな津田梅子に、再留学の話が持ち上がります。

留学時代、捨松と親しくしていて姉妹同然であったアリス・ベーコン。

アリス・ベーコン/wikipediaより引用

彼女が来日し、津田梅子を留学生として、新設の女子大ブリンマー大学へ推薦したのでした。

 

ブリンマー大学で学ぶ

創設わずか四年目。
フィラデルフィアにあるブリンマー大学に入学した津田梅子は、羽をのびのびと伸ばします。

ブリンマー大学/wikipediaより引用

堅苦しい日本の生活から解き放たれ、際立った聡明な学生として、生物学を専攻するのでした。

留学二年目後半は、生物学だけではなく教授法も学びます。日本から許可を得て、女子教育を学ぶという条件付きで、期間を一年延長したのでした。

さらに津田梅子は「日本婦人米国奨学金」または「ジャパニーズ・スカラシップ」と呼ばれる制度を、メアリ・H・モリスらアメリカ人女性の協力を受け、設立します。

志ある女性が、経済的に不自由なく学べるよう、尽力したのでした。

日本の女子教育は、アメリカ人女性の尽力なくしては成立していません。

捨松の兄・山川健次郎も、アメリカ留学中に政府から学費を打ち切られています。

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彼が勉学を続けられたのは、学友の母であるアメリカ人女性支援のおかげでした。国境を超えた善意が、日本の教育を前進させたのです。

かくして津田梅子の夢は、再留学の3年間でさらに燃え上がってゆきます。

 

ナイチンゲールと意気投合

津田梅子は、女子教育のための塾設立を胸に秘めていました。

日清戦争で浮かれる日本で、梅子はその目的を考え続けます。

なぜ、国の援助の元でそうしなかったのか。それは、国の考える女子教育との違いがあったことでしょう。

こうした思いは、津田梅子一人だけではありません。

実業家の広岡浅子は、成瀬仁蔵の協力を受け、明治30年(1897年)には女子大学創設発起に動き出します。この願いは、明治34年(1901年)に実ることとなります。

津田梅子はヘレン・ケラーに面会し、その情熱に感銘を受けています。障害をものともしない教育に、感動しないはずがなかったのです。

明治31年(1898年)、女子教育視察のため津田梅子はイギリスへ向かいます。

オックスフォードに滞在し、ナイチンゲールと面会。彼女から受け取ったスミレは、押し花にして持ち帰りました。

この押し花は、現在も残っています。

ナイチンゲールは、「白衣の天使」というあだ名から、穏やかな女性だと思われがちです。

実はまったくそうではありません。

データを分析し突きつけ、政府を黙らせる。ワーテルローの英雄であるウェリントン公を「時代遅れ」と容赦なく批判する。

そういう強気でデータ重視の性格です。

津田梅子がそんなナイチンゲールと面会し、発奮しました。意気投合するものがあったのでしょう。

皮肉にも、津田梅子が女子教育において合致したのは、海を越えた海外の女性ばかりでした。

日本には、男性はおろか女性ですら、津田梅子の大志を理解できる人物は少なかったのです。

明治32年(1899年)には高等女学校令が発布されました。
翌年には、52校、1万2千人にまで学生が増加しています。

とはいえ、高等といっても男子の中学程度のカリキュラムです。
就職先も、女子高等師範学校のみ。かたちだけ整え、女子学生の進路を考えていたとは思えません。

女の道は結婚のみ。
その考えは強固なものでした。

だからこそ、津田梅子は立たねばならない。そんな時代の流れでした。

 

女子英学塾・津田塾開校

明治33年(1900年)、津田梅子はアメリカへ渡ります。

津田梅子の志を知るアメリカの友人が、彼女を迎えました。

多数のアメリカ人が、寄付を集め、総額は2千ドルになっていたのです。

津田梅子は華族女学校、女子高等師範学校を辞職。「女子英学塾」を9月に開校しました。

ささやかな校舎で、学生は10名ほど。食堂やパーラーも、教室として利用されました。宣伝が不十分であったものの、学生は増えていきます。

女子師範学校にはない、英語のカリキュラムがあること。これこそ、津田梅子の理想にそった結果でした。

津田梅子の教育方針は、それまでの華族を中心とした女子教育とは異なるものでした。

・精神性を高めること

・個性にあった教育であること

・広い視野を持つこと

英語教育も、基礎からしっかり。そのうえで、応用力も重視しています。

華族女子相手に教鞭をとるほうが、華やかで地位は得られます。しかし、津田梅子は自分なりの教育を完徹したい。そう考えていたのでした。

少数でありながらも、熱心な学生たち。

塾は軌道に乗り始め、学生も増えます。手狭になる校舎を求め、津田梅子は幽霊屋敷のような洋館はじめ、屋敷を買い足してゆくのでした。

そんな津田梅子の熱心な教育ぶりは、学生を感心させたものでした。

梅子は、独身女性としては異例の分家を構えています。結婚ではなく、自ら家を持つこと。それが彼女の矜持であり、生き方でした。

 

新たな女性像を目指して

津田梅子の女子教育は、当時としても最先端であり、今日の目から見てもそうであると言えるものです。

新たな女性像――津田梅子の目指したものは、そのことでした。

幼い頃から持ち続けた聡明さ。

はっきりと物言う性格。

若き日に噛み締めた女性の低い地位。

こうしたものを克服すべく、津田梅子は突き進みます。

明治に産声をあげた女子教育は、あくまで良妻賢母育成を目的としていました。

江戸時代以前、教育は男女別でした。男子の教育は男性、女子の教育は女性が行うもの。それが、欧米から学んで変化していったのです。

「賢く強い男児を教育するためには、母となる女子にも教養が必要だ」

そんな考えが、欧米でも日本でも主流でした。あるいは、鹿鳴館で踊る華やかな女性を生み出すことか。

津田梅子は、こんな女子教育から踏み出しているのです。

自分の意見を言うこと。
広い視野を持つこと。
彼女のように、良妻賢母の枠からはみ出す女性には、その個性にあわせた教育が必要であること。

世界的に燃え上がり始めた、婦人参政権運動とも一致する。それが津田梅子の女子教育でした。

※同時代、イギリスでの婦人参政権運動を描いた『サフラジェット』

大正6年(1917年)、糖尿病に倒れ何度も入院し、教壇に立てなくなります。彼女は 女性像を模索し続け、学生たちを導いていました。

その志は病床でも変わりません。

大正12年(1923年)関東大震災では、病身ながらも復興資金集めに尽力しています。

弟、父母、ランマン夫妻、アリス・ベイコン、捨松、繁子。

多くの恩人を見送ったあと、昭和4年(1929年)、津田梅子は病死しました。

享年66。

彼女の志を受け継ぐ津田塾大学は、キリスト教と英語教育を柱とし、今日まで続いています。

こうして津田梅子の志は受け継がれたのです……いや、そうでしょうか。

 

彼女の道はまだ半ば

津田梅子の新札採用が決まった平成最後の年、2019年。梅子が味わった状況は、まだこの国で続いています。

帰国子女を「ガイジン」かぶれとのけものにし、活用しない傾向。

結婚こそが女性の道であり、適齢期を逃した女性を蔑む傾向。

個性よりも、周囲に合わせるために施す教育傾向。

津田梅子の名前がニュースで流れる中、こんな東大祝辞が話題となりました。

◆‪上野千鶴子さん「社会には、あからさまな性差別が横行している。東大もその一つ」(東大入学式の祝辞全文) 

騒然となったこの祝辞ですが、悲しいことにその通り。当たり前のことなのです。

◆‪東大祝辞・上野千鶴子インタビュー 「当たり前のことを言っただけ」 (1/3) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット) 

◆‪「日本は男女平等が進んでいない」ジェンダーギャップ指数2018、日本は110位でG7最下位。

嘘でも大げさな話でもなく、日本の大学進学率における男女比は、世界的に見ても異常です。

◆‪日本の女性は先進国で最も学歴が低い? 女性と子供の貧困を生み出す日本の女子教育

◆‪女子の大学進学率が男子より高い状況も問題。アメリカの「落ちこぼれ男子問題」は日本でも火を噴くか?

津田梅子が叩かれたように、物言う女は叩かれます。

「女の幸せは結婚して家庭を持つこと」と決めつけられます。
‪‬‬
◆上野千鶴子「東大祝辞」でワイドショーコメントが酷い! 東国原英夫、坂上忍、玉川徹、東大卒元官僚の山口真由も

この状況を見て、津田梅子が今いたとしたら?

何を思うでしょう?

彼女が紙幣の顔として、日本人を見つめている。

その眉間に皺が寄らないと、どうして言えるのでしょうか。

梅子の新紙幣が登場するまで、あと数年が残されています。

その間にも、その後にも、津田梅子が目指した女性像や教育に、少しでも近づけること。

それこそが、彼女の目指したこの国の姿ではないでしょうか。

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文:小檜山青

【参考文献】
『津田梅子』古木宜志子(→amazon
『津田梅子を支えた人びと』飯野正子・亀田帛子・高橋裕子編(→amazon
国史大辞典

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