『ゲゲゲの人生 わが道を行く』水木しげる(→amazon link)

明治・大正・昭和

心が少し軽くなる水木しげる&武良布枝の生涯「なまけ者になりなさい」

好きなことをして生きる――。

とは、言葉にするのは簡単ですが、そう容易く実現できるものでないことは皆さんご存知でしょう。

そもそも自分は何が好きなのか。

どんな生き方をしたいのか。

己の内面と真剣に向き合うことは意外と難しく、何か大きなキッカケでもなければ掴めない。

そんな境地に、大切な腕を一本失い(それ以外の過酷な経験も経たことで)達したと思われるのが水木しげるさんです。

2010年には、奥様・武良布枝むらぬのえ(旧姓・飯塚)さんと共に朝ドラ『ゲゲゲの女房』が描かれ、感動的な姿を見せたこの夫婦。

史実では、どのような人生を送っていたのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

 

マイペースな茂、誕生す

大正11年(1922年)3月。

大阪で武良茂むらしげるという少年が誕生しました。

生後間もなく鳥取県に移ったため、同県での誕生という表記もしばしばなされます。2歳違いの兄と弟に挟まれていました。

武良家は成功した部類でした。

父はハイカラで映画を好み、わざわざコーヒー豆を挽いて淹れるほど。

母はしっかり者で、マイペースな夫とは対照的です。

父に似たのか。茂も、おっとりとしていて、マイペースでした。

あまりに自分本位で、兄弟と違って幼稚園にも行かせてもらえず、小学校入学が一年遅れたほど。学校に通うようになっても、急いで朝食すら取らない兄弟の分まで平らげるのです。

3歳の頃の水木しげる/wikipediaより引用

趣味に没頭して夜更かしが好き。そのくせ、たっぷり眠らないと嫌。朝寝坊が大好き。

そんな少年は幼少の頃「アホな子ども」と思われていたと、本人も回想しています。

自分本位で、興味のあるものには集中する。そうでないものはどうでもいい。

しかも、周囲と異なり、本人だけは自分が賢いと信じていた。

学校では、やたらと放屁することと、絵のうまさでは有名――そんな少年期でした。

 

のんのんばあの不思議な世界

そんな茂少年が夢中になったもの。

それは、お手伝いに来ていた「のんのんばあ」でした。

彼女は神仏に仕える人を「のんのんさん」と呼んでいました。夫も「拝み屋」であり、夫婦そろって人外のものに縁深かったのです。

真顔で妖怪について語るのんのんばあ。

その話を聞いたあと、茂はまるで、その妖怪が近くにいるような気がしてきます。

のんのんばあの話は怖い。逃げ出したい……それなのに、夢中になって聞き入ってしまう……。

武良家の手伝いを辞めたあと、のんのんばあは結核患者の看病をしました。そして彼女自身も感染してしまいます。

感染をおそれ見舞いもできないものの、これが今生の別れになると悟ったのか――三兄弟はやっと彼女の顔を見ることができたのでした。

「のんのんばあは、死ぬるだよ」

そう言い残し、彼女は他界しました。

茂は本人の前では涙をこらえていたものの、外に出た途端に号泣してしまうのでした。

こうして、苦労続きの老女はひっそりと亡くなりました。

しかし、彼女が茂少年に与えた影響は、多彩な世界観となって今も生き続けます。

 

安来節の故郷で育った布枝

茂の誕生から十年後、昭和7年(1932年)。

安来節で知られる、島根県安来市の大塚という小さな町で布枝が生まれました。

家は、祖母、父、母、姉二人、兄、布枝、弟、妹――総勢9名という三世代の大家族。

父は村の議員をつとめたこともありますが、彼女が生まれた頃は細々と生活必需品を売り、暮らしていました。

安来地方は、妖怪伝説が残る神秘的な風土もありました。

祠や地蔵が多く、神を怒らせるなと言い合いながら、人々は暮らしていたのです。

そんな田舎町にも戦争の波は押し寄せますが、空襲もなく比較的平穏でした。

しかし、彼女の未来の夫はそれどころではなかったのです。

 

好きなことで生きられない時代になった

茂は絵のセンスこそ天才的ながら、性格的に会社勤めは無理だと言われるようになっていきます。

何度か出版社にも勤務したものの、好奇心の旺盛さが仇となる。

配達の最中に見かけたものを追いかけてしまい、仕事にならないのです。

こうなったら、絵で生きていくしかない――。

高等小学校卒では美術学校の受験資格もない。かくして回り道でも、大阪府立園芸学校に進むことにするのです。

18歳ごろの水木しげる/wikipediaより引用

定員50名、受験生51名。これならばと思っておりましたが、まさかの不合格でした。

理由は面接です。

お国のために尽くすという答えが期待される中、正直に絵をやりたいと語ったため、落とされてしまったのです。

やむなく家業を手伝ったり、工場勤務をしながら、絵の道を探る茂。

しかし、それも長くは続きません。

太平洋戦争が勃発し、好きなことだけをしていたい茂にとって、受難の時代が訪れます。

マイペースでユーモアにあふれた茂にとって、挙国一致で戦争をしなければならない日々は、苦痛に満ちたものでした。

そして昭和18年(1943年)。

赤紙こと召集令状が彼の元にも届くのです。

 

軍隊生活が向いているわけがない

茂は身体頑健であるものの、近眼であったために乙種合格でした。

性格的に、茂にとって兵士の適性がないこと。

それはおわかりいただけるかと思います。実際に、不真面目で生意気とみなされました。

態度がでかすぎたのか。入浴時に将校と誤解されて、背中を流されてしまう。それが新兵だったと判明して殴られる。

早起きはできない。
便秘で用便に時間がかかり、遅刻。
そしてビンタ。

ラッパ卒に志願したものの、まるで吹けない。

これでは嫌だとしつこく配置転換を願い、しかも寒さを避けて「南」と答えたことで恐ろしいことになるのです。

行けば帰れぬとされた南方戦線への転属が決まりました。

南方への配属決定後。

実家でなけなしの白米と魚でもてなされながら、マイペースな茂も恐怖を感じておりました。

鳥取連隊(陸軍二等兵)時代 (父・母・弟と)/wikipediaより引用

国のために死ぬと願うほど、真面目ではない。

けれども、これが故郷の見納めかもしれない――そう本気で思ったのです。

そのあと、岐阜を経由し、日露戦争時代から使われているという「信濃丸」に乗船、半月ほどでラバウルへ。

船旅も危険なものでした。

なんせ、これ以降、ラバウルに向かう日本船はことごとく撃沈されています。船の上ですら、命の危険にさらされていたのです。
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