霞柱のような天才でもない。
炎柱のように父から受け継いだ鬼殺でもない。
音柱のような元忍でもない。
岩柱のような仁王像めいた巨漢でもない。
家族を失い、ひたすら自己流の鬼殺をしてきて、柱にまでたどりついた男――それが風柱の不死川実弥です。
弟の玄弥ともども鬼を殺すべく刃を振るってはおりますが、炭治郎と読者にとっての第一印象は最悪でした。
柱合会議では、主人公の妹である竈門禰豆子を最も強硬に殺すべきだと主張し、自らの腕を切り裂いてまで彼女を挑発したのです。
その荒々しさに、治炭郎は「知性も理性も全く無さそう」と思っていたほど。
あんな最低最悪、むしろ倒されて当然のチンピラのようだったのに、実は頼れる兄貴分だとわかる。
それが不死川実弥(しなずがわさねみ)。
11月29日は物語上での誕生日となりますが、本稿では、弟の玄弥と共に彼のことを考察してみたいと思います。

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長男はどうして特別なのか?
不死川実弥は、炭治郎同様に長子かつ長男です。
炭治郎もよく「長男だから頑張れた」と考えていましたが、読者の皆様からすると
『生まれ順ってそこまで関係あるの?』
といった違和感があったかもしれません。
現代と違い、大正時代の長男は特別だったのです。
もともと日本の家制度が転機を迎えたのは明治時代からのことでした。
家をどうやって存続させていくか?
【四民平等】という建前のもと、庶民まで家の存続を考えるようになりました。
この考えと対立するのが、徴兵制度です。
男子が全員徴兵されてしまったら、家が途絶えてしまう――そうならないよう、一家の長である戸主は兵役を免除されると規定されていました。
徴兵を避けるために、敢えて養子になる逃れ方も存在したほど。
第二次世界大戦の後期ともなれば、何もかもが破壊されてゆきますが、ともかく大正時代にはそういう認識があったのです。
家長の優遇と責任重圧
生まれ順が最初というだけで命までもが助けられる。
こう言うと、長男が得なように思えますが、当然ながらメリットばかりではなく責任感と表裏一体であります。
炭治郎が痛みや苦痛を感じつつ、長男だからと我慢する姿。
実弥が家族を守るために突き放したように思える姿。
若くして、幼くして一家を支える、そんな厳しい姿が読者の皆様の目にも映ったことでしょう。
ちなみに、姉妹しかいない場合は長女が婿を取り、家を存続させなければ――と重圧を感じるようになります。
蝶屋敷のしのぶには、女子でありながら家長である、そんなプライドがあるのです。
※以下は胡蝶しのぶの考察記事となります
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家を守ることを叩き込まれた長男であるがゆえに、責任感も重い。
苦難にも耐えるべく、無理をしてしまう。
そんな制度の苦しみを、『鬼滅の刃』の長男たちは抱えているのです。
近代都市部貧困家庭に生まれて
炭治郎は、初対面で妹を殺そうとした実弥から、知性と理性の欠如を感じました。
身も蓋もないようで、大正時代の男性像の一典型であるとも言えます。
江戸時代までの身分制度は終わりを告げた。一応はそうなっています。
だからといって、人の意識や社会はそうそう変わりません。
そこには格差がありました。
貧富、藩閥、そして教育――。
不死川家は東京府、つまりは江戸出身です。
不死川家には、明治維新以降の江戸っ子らしい悲哀が詰まっています。
明治維新は江戸っ子にとって、忌々しいものでした。
将軍様のお膝元という誇りを傷つけるような薩長閥の政治家たちが台頭したからです。
おはぎ(=長州)とおいも(=薩摩)が威張りやがって。江戸は無茶苦茶だ、何が明治だ、おさまるめいと逆からは読むんだよ!
そう歯ぎしりしつつ、崩壊する江戸時代以前の秩序を見ているしかありませんでした。
特に、不死川家は7人兄弟、“貧乏人の子沢山”です。
煉瓦街を照らす街灯、華やかな鹿鳴館……そんな東京の輝きからは程遠い庶民でした。
明治以降、江戸時代以前ならば家庭を持てなかったような層でも、家庭を持つことができるようになりました。
こう書くとよいことのようにも思えるかもしれませんが、コトはそう単純ではありません。
明治政府は産業や軍事を急ぐ一方、福祉に関してはお粗末でした。
人口増大、貧困層を補償しない。
高まる民衆の不満は【通俗道徳】という自己責任論で放置する――そんな残酷さがあったのです。
ただしこれは日本の治世だけが悪いとかいうものでもなく、歴史の流れで生まれた「近現代史の闇」とでも申しましょうか。悲惨な格差が広がる時代でもありました。
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そうした状況を踏まえて不死川家を見てみましょう。
おはぎが地雷となりかねない
不死川家の父は、妻子を殴る蹴る、粗暴な男でした。
彼は人の恨みを買い、刺殺されてしまいます。それに対し不死川家の兄弟は悼むこともなく、自業自得と突き放しています。
今で言えば「DV夫の最低野郎」となりますが、当時はそんな概念ありません。ドメスティッグバイオレンスが認知・定着するのはもっと後世のことです。
不死川の父がどんな生活を送ってきたか? 推察することはそこまで難しくもありません。
当時は“車夫馬丁”という言葉があります。
人力車を引く。馬車の世話をする。知性や教養とは無縁で、肉体労働するしかない、最下層の肉体労働者をさす言葉です。
彼らの楽しみといえば、酒を飲み、博打を打ち、女をかうこと。女房子供を殴る蹴る。
些細なことで喧嘩して、何かあれば殺し合いまでやらかす。
荒れ果てた生活で、長生きもできない。
そういう当時の典型的な男性像が、不死川家の父からは見えてきます。
当然ながら、そんな環境で生きていれば、たとえ子どもであろうと冷めた目線になってしまう。
父の死を自業自得と受け止める不死川兄弟からは、厳しい社会状況が見えてきます。
生きていくために、父の死を悲しむどころか、どうやって生きていくか考えねばならない。
それが近代都市部貧困家庭における、家長としての実弥の役割でした。
そんな実弥の本音が垣間見えるものがあります。
彼の好んだ食べ物・おはぎ。彼が生きていた頃、おはぎは家庭の味であり、ちょっと特別なものでした。
いつもよりちょっと贅沢したいとき、母が作る甘い味。懐かしくて、そのにおいを嗅ぐだけで母と家庭の温もりを思い出す、そんなやさしい味。それがおはぎです。
あれほど強がっている実弥だって、母を恋しく思い出す。
そこを踏まえますと、彼と不仲の冨岡義勇が無表情でおはぎを差し出すことが、どれほど危険なことかご理解いただけるでしょう。
俺が母を恋しがっているって言いたいのかテメエ!……血の雨が降りそうです。
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そんなおはぎを作ってくれた母・志津が鬼と化したことで、実弥と玄弥の生活は、どん底から地獄へと突き落とされてゆきます。
それは悲惨なことではあるのですが、考えておきたいことはあるのです。
果たして、鬼の襲撃がなかったところで、不死川兄弟は幸福な人生を送れたのかどうか?
その可能性はさして高くないとは思えます。
彼のような家庭環境で生まれた人々は、格差をものともせず這い上がることもできなかったことが多い。
あれほど憎んだ父のようになったとしても、おかしくはありません。
鬼にとっては罠となる稀血
実弥には【稀血】が流れています。
鬼にとって類まれなごちそうであり、そのために狙われてしまう。
災厄としか言えない、そんな【稀血】についてちょっと考えてみたいと思います。
日本では、さして知名度が高くないためか、指摘されているところを見かけませんが、実は似たような設定のフィクションがあります。
海外ドラマ『トゥルーブラッド』(→amazon)です。

トゥルーブラッド(→amazon)
この作品のヒロインであるスーキーはフェアリー(妖精)の血を引いている設定。
ただし血はかなり薄くなっていて、妖精としての能力は、心を読める程度しか特徴がありません。
しかし、吸血鬼にとっては人間の血よりもはるかに美味でたまらない、特別なものでした。
スーキーは恵まれない家庭の出身です。
しかもこの特殊な血のせいでむしろトラブルを抱えてしまい、仕事も選べない。レストランのウェイトレスくらいしかありません。
南部の貧しい女性労働者として生きていくだけでも楽じゃないのに、特殊な血液のせいで吸血鬼やその他特殊生物を惹きつけてしまい、次から次へと災厄に見舞われてしまいます。
その過程でスーキーは強くなるしかない。
そんなパンチの効いたドラマシリーズです。
自己流で対処法を学び、災厄を押しのけてゆくスーキーは、現代アメリカ性別逆転版・不死川実弥のようなたくましさがあります。
これまた鬼舞辻無惨のような吸血鬼もウロウロしているのですが、「なんだイケメン吸血鬼と恋愛するドラマかよ」なんて思っていると、血しぶきまみれになっている傑作。
吸血鬼の過去を通して人類史を振り返り、問題提起を図る点でも『鬼滅の刃』と共通する世界観があります。
個人的な話ではありますが、やっとこの作品を人に勧める契機ができ嬉しい限りです。
ちなみに完結から10年を経過していないのに、リブートもされる予定。海外では大ヒットしております。
話を実弥に戻しましょう。
◆ 「トゥルーブラッド」早くもリブート、HBOで企画中(→link)
叩き上げの典型
エリートどころか災厄のもととなる【稀血】をもち、生まれ育った環境も劣悪。
そんな逆境にもめげずに、実弥は生き抜こうとします。
自分の血を餌にして捨て身で相手を倒す、そんな自己流でがむしゃらに戦い抜いてゆくのです。
結果、彼の戦闘力は柱でも上位と思われるほど際立ったものとなりました。
これも彼が生まれた時代らしい特色ともいえます。
その血統から鬼殺隊加入を望まれた霞柱・時透無一郎と対比するとわかりやすいでしょう。
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世界史的に見ると、江戸時代のあたりから中世が終わり、次の時代へと進んでゆきます。
ナポレオン戦争は、徴兵制度と身分を問わない士官登用の威力を証明しました。
一世紀前ならば下士官どまりであったものたちが元帥にまで上り詰め、大活躍を果たしたのです。
そんなフランスと対峙したイギリスのような国でも、活躍した軍人層はアッパーミドル階級でした。
ナポレオンの野望を挫いたネルソン提督は、牧師の子であり、まさしくこの典型例です。

ネルソン提督/wikipediaより引用
いいから日本の歴史や風柱の説明しろよ!と言われそうですが、あと少しだけ堪えてつかぁさい。
この時代、世界史的に見ても
【人間の能力は、血統よりも本人の努力や資質にあり】
と人類は目覚めたのです。
近代という時代は、そうした叩き上げが道を開ける時代となりました。
会津の貧家に生まれながら、紙幣の顔にまでなった野口英世は時代のロールモデルともいえます。

野口英世/wikipediaより引用
野口より師匠である北里柴三郎の功績の方が上とも思えるのに、紙幣採用の順序が逆転したのはなぜか?
そこにはそうした理由もあるのでないでしょうか。
鬼殺隊の柱の中で、この叩き上げ最大の体現者が不死川実弥といえます。
義勇とは対照的ながら相性は抜群?
知性も理性もないと思われるほど粗暴。家庭環境は劣悪。
はじめから育手につくわけでもなく、自らの【稀血】で鬼をひきつけ、喧嘩殺法で血祭りにあげてきた不死川実弥。
こういう人物像は、フィクションではおなじみです。
軍隊を舞台にしたものですと、軍曹が典型例ですね。
士官学校は出ておらず、一般兵として戦い抜き、戦う場所に居場所を見出す――這い上がってきて、新兵を鍛え上げる。
“鬼軍曹”という言葉は、厳しいしごき役の代名詞です。
それも叩き上げということをふまえれば理解しやすくなることでしょう。
軍隊と似た制度の警察ものでは、ノンキャリア、略してノンキャリ。町の巡査からスタートし、警視長を超えては出世できません。
最終話で姿を見せる彼の子孫も、このノンキャリア警察官ですね。
学園ものでも、推薦入学でなく、実力でレギュラーを掴んだ選手などなど。
士官学校卒の将校、名門大学卒のキャリア、推薦入学のエリート。そういうキャラクターの対比として出てくる、オラオラした人物像――実弥はそういう系統に入ります。
産屋敷耀哉にいきなり失礼な態度を取って絡む。
そうかと思えば、序列や礼儀作法に正しい。
反逆心を胸に秘めつつ、組織の秩序を遵守しなければならないと思うからこそ厳格です。
空気は読めます。むしろそこは厳しく守ります。
そういう近代以降の叩き上げとしての風格と特色が、不死川実弥には宿っています。
ちなみに水柱である冨岡義勇は、彼とは対照的です。
鬼殺隊以前の家庭環境はそれなりに恵まれており、育ちがよさそうではある。
しかも実弥からすればエリート意識が漂い、鼻につくようなことをいう。
ただ不器用なだけですが、それが実弥には理解できません。
それゆえ相性が最悪なのは必然といえます。
ただ、このすっとぼけ知性派エリートと、腕っぷしが強く空気が読める叩き上げは、フィクションではゴールデンコンビにもなりえます。
ホームズとワトソンのようになってもおかしくない。
相性最悪のようで、最高かもしれない。
そのことは本編でも証明済ですね。
弱音を吐けない、男の苦しみ
そんな不死川実弥は、かつての男が持たねばならなかった悲哀が凝縮されています。
男性性の有害性が最も体現されているとも言える。
前述の産屋敷耀哉への態度にせよ、弟・玄弥の突き放し方にせよ、炭治郎と禰豆子への接し方にせよ。
もっと穏やかに話し合い、問題提起することはできなかったのか?
いちいち言動があまりに荒々しいのです。
不死川実弥が近くにいたら、どうです?
マンガを最後まで読んで、素晴らしい兄貴だとわかっていればよいですが、初対面だったら?
キレやすいだの、ヤンキー気質だの、現代ならばそうなりそうな彼の気質には、古典的な呼び名もあります。
鉄火肌。勇み肌。伝法肌。侠気あふれる。男伊達。親分肌。兄貴。生一本。一本気がある。
プラスイメージばかりのようで、強がりとは紙一重。
実弥は江戸っ子なのです。
江戸っ子は蕎麦にたっぷりとつゆをつけて食べられない、なんて小噺もあります。
なぜか?
無粋だから。
江戸っ子は強がり、見栄っ張り、向こうみずで無鉄砲、喧嘩っ早い。そういう特徴があるとされます。
落語等でよく見かけますが、実弥はまさしくそんな性格です。
彼は自ら傷つけて、それを見せびらかすようなところもある。
一体なんなのか?
これも江戸っ子らしいといえばそうなのです。
あんなに傷をつけて、命が惜しくねえんだな、なんて奴だ! そういう無鉄砲さのアピールをしてこそ、江戸っ子だとされました。
伊予松山藩の足軽ながら江戸詰であった新選組の原田左之助は、切腹をした跡を自慢の種としていました。
こんなふうに腹を切っても死なない。俺ァ死に損ないだ! そう自慢していたのです。
現代人からすれば一体なんなのかわけがわからないかもしれませんが、それが江戸っ子です。
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ただ……そんな江戸っ子のような粋な振る舞いには、マイナス面もある。
そのことまで実弥は見せてきます。
毒となる男らしさ(マッチョイズム)
家族を突き放しておいて、本当は誰よりも愛している。守りたいと思っている。自分の粗悪さを悪いと思っていないわけじゃない。
ただ、それを見せられない!
男は無口で、背中で語るのがよい。ペラペラと理由なんざ説明せず、拳で語るくらいでいい。
そういう生き方が、日本男児、粋なものとしてかつてはありました。
それで当の本人だって、素直になれなくてとても苦しかった。
泣きたい時に泣けない。辛い時に辛いと言えない。愛している相手にそうも言えない。
むしろ正反対のことを言って、ケッと見下していかないと、見下されて弱い男になってしまうかもしれない。
そんなマッチョイズム、【毒となる男らしさ】を実弥は体現していませんか?
彼が素直になって、自分の感情を荒々しい言葉で吐き出す姿は、とても悲しいとは思えませんか?
男らしさの悲しさ。その弊害。それは、そのことをアピールする者が、苦しんでのたうち回ってこそわかるもの。
炭治郎が「長男だから」と発奮すること。錆兎の「男に生まれたなら進む以外の道などない!」という言葉。そして実弥の言動は、マッチョイズムに溢れていて、有害であるから変えるべきだという批判もあります。
けれども、実弥がこんなにも苦しく、悲しく、最後の最後で禰豆子に照れ臭そうに謝罪したことを思い出してください。
別にこの作品は、ワニ先生は、男らしさを無邪気に肯定しているわけではありません。
【マッチョイズム=毒となる男らしさ】にがんじがらめにされて、実弥は十分苦しかった。
それを見せています。
さらに大事なことは……そうした苦しさが彼一人のものではないことです。
実弥の父も、話し合うより喧嘩するような性質だからこそ、あっけない最期を迎えました。
彼らのような男性は、長いことこの日本にずっと存在してきました。
今でも彼らのような【マッチョイズム=毒となる男らしさ】に苦しみを感じている人はいます。
実弥はある意味、あなたや私の曽祖父、祖父、父であり、兄貴でもある。
そういう日本男児の悲哀と魅力を体現する人物です。
彼らを否定するだけではなく、理解し、どうすれば心の重荷を軽くできるか。
そこまで考えることは不利益ではないでしょう。
玄弥――弱き者が持つ強さ
実弥の弟である玄弥のことも考えてみましょう。
家庭環境が一致するため、兄と同じく粗暴さがあります。
外見もワイルド。そして初印象も悪い。最終選別の突破後には、案内役の子どもに乱暴を働き、炭治郎に止められていました。
まったくもって悪い印象しかありませんが、これも彼の若さや家庭環境を考えると理解はできます。
言葉よりも暴力が先に出ること。なんとしても実力を見せたいこと。そうしたことのせいで、粗暴な言動をしてしまっていると思われるのです。
父も母も死に、兄とは誤解が生じたまま突き放されてしまう。しかも、鬼殺の才能があるとも思えない。
そんな少年が、自分に目を向けさせる手段として、問題児めいた振る舞いをしてしまう。
玄弥にはそんな悲しさがあります。
共に生きていくことを通して、心を開いた玄弥からは、むしろ繊細すぎる性格が伝わってきます。
戦い抜いて、修行を積むうちに、師事した悲鳴嶼行冥や同期の炭治郎と交流し、やがて拒絶されていた兄・実弥とも心が通い合ってゆきます。
はじめから素直なわけでも、才能があるわけでもない。
周囲との交流を通して成長し、本来の持つ優しさや長所を見出していく。
玄弥は、不器用だけれど親しくなればよいところがある、そんな人物像を見せています。
こうした最初からよい子ではない人物像を出していくことこそ、『鬼滅の刃』の特色なのでしょう。
誰も初めから完璧ではないのです。
日輪刀の色も変わらない。全集中の呼吸すら使えない。ゆえに大きな口径の南蛮銃を装備。鬼を喰らい、消化吸収する禁じ手を使うことしかない。
胡蝶しのぶは小柄で非力であることを、知能でカバーするタイプでした。
兄・実弥は度胸と勇気と、生まれ持った精神力、身体能力で闘う。
玄弥は、そのどちらでもありません。
繊細な感受性、工夫、負けない心で戦うのです。
弱い者でも強くなれる――そんな可能性を示す人物像でした。
★
本作の実弥と玄弥の兄弟は、男性性の持つマイナス面、本人も苦労するところを象徴するような人物です。
ワニ先生は、近現代の男が持たせられたそんな像をインプットし、それを生かしているのではないでしょうか。
確かに、彼はじめ本作の人物が語る一部の男性像は古臭く、平成令和では有害の思えます。
しかし、だからといって
「こんな古臭い男だからどうこうというセリフは、全面的に削るべきです!」
「男だから強くなくても良いと思います!」
という安易な意見には反対です。
そうすると、大正当時の男性が縛り付けられていた呪いが消えてしまい、かえってわかりにくくなります。
それは『忠臣蔵』に対して、
「別に主君が侮辱されたからって、討ち入りすることはないと思います!」
「赤穂浪士が切腹するエンディングはあまりに暗い! もっと明るくしましょう!」
そう要望するようなものではありませんか?
ハリウッドの『47 RONIN』だって、ゴーレムは出てきても、仇討ちと切腹は削除しません。
そういうその時代の精神性が宿る根幹は、決してはいけませんからね。
念のため付け加えておきます。
冨岡義勇が無口で感情を出せないのは、大正時代だからでも、男だからでもありません。
どの時代にもごく少数いる、絶望的に空気が読めない性格の持ち主ということです。
義勇は令和にいようと、あの調子だと思われます。
男らしさのマイナス面、そのどうしようもなさは、鬼に集約されています。
柱よりも若い炭治郎たちは、むしろ伝統的な男らしさを抜け出しつつある像です。
世界にはいろいろな人がいて、時代の制約があった。
そういう人々がいてこそ、幾星霜を煌めく命は受け継がれていました。
『鬼滅の刃』を楽しむついでに、過去にあった命、そして今を生きる命についても考えたいですね。
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【参考】
『鬼滅の刃』17巻(→amazon)
『鬼滅の刃』アニメ(→amazonプライム・ビデオ)








