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【与謝野鉄幹】
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鉄幹自身はスランプに陥り、選挙に出馬
同じ頃から、鉄幹自身は極度のスランプに陥っています。
晶子も心配し、ヨーロッパ旅行を勧めましたが、創作意欲がわいたのは彼女だけでした。
与謝野夫妻の活動は、光と影のような関係にあったようでして。
他の業界でもよく聞きますが、成功者が身近であればあるほど苦悩は大きいもの。
本人に才覚があればなおのこと苦悩は深くなります。
何人もの女性を苦しめた鉄幹が、最も身近な女性である妻の成功によって悩む……というのも、因果な話ですね。
何を思ったのか、鉄幹は地元・京都で選挙に出馬したこともあります。
そして当然のごとく落選。スランプが長すぎてどこかのネジが外れてしまったんですかね。
選挙は一回で懲りたらしく、その後は慶應義塾大学文学部で教鞭を取り、13年間在籍して多くの文人を育てました。
同時に、晶子や建築家の西村伊作、そして画家の石井柏亭らとともに文化学院を創設しています。
教育方面で生きていこうとしたものでしょうか。
センバツの入場曲にも使われた「爆弾三勇士」
教育者としての鉄幹の言動はあまり伝わっていません。
亡くなる三年前に、鉄幹はもう一つ代表作を残しました。
「爆弾三勇士の歌」という物騒なタイトルの歌詞公募に応じ、一等入選を果たしたのです。
当時は「センバツ」こと選抜高等学校野球大会の入場曲にも使われたため、鉄幹も再び脚光を浴びたと思われます。
「爆弾三勇士」とは、第一次上海事変で爆弾を抱えて中国軍に突撃し、突破口を開いたという三人の兵士のこと。
第一次上海事変自体は「満州国建国の後、緊張が高まっていた中国で起きた軍事衝突&陰謀事件」といったものです。
晶子も「君死にたまふことなかれ」を発表して40年近く経った頃に、戦争に賛成するような歌を詠んだことがありますが、夫婦ともに世の流れには逆らえなかったのでしょうか。
まあ、戦争に対する世論も、状況に応じて賛成・反対がコロコロ変わりますので、著名人がある程度迎合するのは仕方のないことではあるのですが……若い頃からの鉄幹の行状を知っていると、何だかモヤモヤしますね。
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【参考】
国史大辞典
与謝野鉄幹/Wikipedia