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【フェノロサ】
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僧侶たちは抵抗しつつも、結局、逃げた
フェノロサはこの像を調査すべく、明治政府の許可証を持って法隆寺を訪れました。
もちろん僧侶たちは抵抗しましたが、フェノロサの熱意(という名の威圧感かも)に負けて、逃げるように道を開けたそうです。
しかし、厨子(仏像を安置しておくケース)を開けてみると、そこにあったのは幾重もの木綿で覆われた、仏像なのかどうかもわからないものでした。
丁寧に布を巻き取る度、数百年分の分厚いほこりが舞い上がったそうです。
フェノロサがアレルギーを持っていたら大変なことになったでしょうね。
最後の一枚を取り除くと、そこには畏怖さえ抱くような笑みをたたえた仏像が立っていました。
救世観音菩薩像です。
その後、この像はフェノロサの開扉をきっかけとして、毎年春と秋に公開されるようになったのです。
ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。
残念ながらワタクシはまだ拝んだことがないのですけれども、とても人間に近く生々しい表情をしていると写真からは感じられますね。
もしかしたら、身長だけでなく表情も聖徳太子に似せたのかもしれません。
アメリカへ帰国後はボストン美術館の東洋美術部長に
フェノロサは1890年に帰国した後、ボストン美術館の東洋美術部長として日本の作品を紹介し続け、その後もたびたび来日していました。
仏教に帰依するくらいですから、最期は日本で迎えるつもりだったのかもしれません。
しかし、その前にロンドンの大英博物館での調査中、心臓発作を起こして亡くなってしまいました。
一度はイギリス国教会により葬られたのですが、その後、遺言により、荼毘に付されて日本の法明院というお寺に改葬されています。
フェノロサが受戒したお寺の塔頭(大きなお寺の中にある小さなお寺)でしたので、その縁で選ばれたのでしょう。
現在もフェノロサのお墓は法明院の墓地にありますので、大津で歴史にまつわる所を巡るときには、候補に入れてみてはいかがでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
片野勧『明治お雇い外国人とその弟子たち』(→amazon)
梅渓昇『お雇い外国人――明治日本の脇役たち (講談社学術文庫)』(→amazon)
アーネスト・フェノロサ/Wikipedia
廃仏毀釈/Wikipedia