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人災、天災、トラブル続出……聖武天皇が「奈良の大仏」を作った切ない時代

天平勝宝四年(752年)4月9日は、聖武天皇の提言で作られた奈良大仏の開眼供養会が営まれた日です。

歴史の授業で誰もが習う「東大寺の大仏様」公式デビューともいうべきイベントですね。

その大きさで有名ですが、今回はこの大仏様が一体どのような経緯をたどってきたのかを見ていきましょう。

 

東大寺大仏の正式名称は盧舎那仏像

奈良大仏様の本名は「東大寺盧舎那(るしゃな)仏像」。

仏様としては「盧舎那仏」となります。

さらに正確に言えば「毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)」ですね。

仏教界のトップであり、教えそのものが擬人(仏)化され、真言宗などでは「大日如来」とも呼ばれます。宗派によって同じ仏様でも違う呼び方をするんですね。

その理由などについては細かい数字や抽象的なお話が多いので割愛しますが、ご興味のある向きは専門書をどうぞ。

一番エラい方を祀るわけですから、東大寺にかけられた期待や願いの大きさがうかがえます。

東大寺やこの大仏を作らせたのは、これまた有名な聖武天皇です。

古代史の仏教といえば、ほとんどの場合、聖武天皇のお話になるんじゃないか?って話ですが、当然これには理由がありました。

 

【同情したくなる聖武治世の前半ダイジェスト】

とにかく災難続きだった聖武天皇。先に人災を見て参りましょう。

・中継ぎとして即位するはずが、イチャモンをつけられて延期され、中継ぎの中継ぎというワケワカメな理由で女帝が立つ

・やっと即位したら、数年で親戚と有力者がトラブって政争に(長屋王の変)

・政争に勝った有力者のほうも、流行病でバタバタ斃れる(天然痘流行)

・都も落ち着かない状況なのに、地方役所の役人に反乱を起こされてイヤになる(藤原広嗣の乱・関東に家出未遂)

・その他同時進行で地震や飢饉が頻発する

そして天災です。

こちらは年表に沿ってマトメておきました。

724年 聖武天皇が即位
725年 平城京を中心に大地震
732年 近畿地方を中心に大干ばつ
733年 近畿地方を始め各地で飢饉
734年 大和・河内で大地震
737年 疫病大流行(貴族も死ぬ)
740年 藤原広嗣の乱
※聖武天皇が平城京から離脱→恭仁京→紫香楽宮→難波宮と転々
742年 大隅(鹿児島)の海底で火山噴火
743年 盧遮那仏(東大寺の大仏)の造営を命ず
744年 肥後で地震
745年 美濃で地震
※再び平城京へ戻る

後世の人間からしても「もうやめたげてよお!(`;ω;´)」と言いたくなるほどの不運ぶりですよね。

ちなみに東日本大震災と比較される貞観地震があった前後も恐ろしいほどに天災が頻発しておりました。

詳しくは以下の記事をご参照ください。

数字で見る【地震の歴史】が驚愕! 300回以上の大地震に見舞われた地震大国日本

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聖武天皇は生前に譲位した初めての男性天皇だった

これだけのことが重なれば、仏様にすがりたくなるのも至極当然。

聖武天皇は「災いが重なるのは、きっと都の位置が悪いに違いない」と考えてたびたび遷都を行っており、費用その他の問題が増え、諸侯から反発を食らいました。

大仏やお寺の建立ぐらいの費用でしたら、遷都よりは周囲の理解を得られやすかったんでしょう。

そんなこんなで東大寺と大仏は作られていったのですが、完成までの間に聖武天皇の皇子17歳の若さで亡くなってしまったり、不幸は継続。

ついに耐え切れなくなったのか。聖武天皇は大仏の完成を待たずして出家・譲位してしまいます。

あまり知られていませんが、聖武天皇は生前に譲位した初めての男性天皇でもあります。

そして出家から三年後、無事大仏の開眼法要を営むことができました。

さらにその二年後には鑑真が来日しています。

鑑真は失明はしていなかった?日本に授戒を伝えた偉業は燦然と輝く

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聖武天皇は皇后である藤原光明子や娘の孝謙天皇と共に鑑真に会ったそうですが、唐からはるばる来てくれた有徳の僧に会って、やっと救われた気分になったかもしれませんね。

 

江戸時代に堀直寄が作った上野大仏

そんなわけで、あの巨大な奈良の大仏様にはいろいろな苦労話が隠れているわけですが、各地の大仏にも変わった逸話がないものか調べてみました。

一番インパクトがデカいのは「首だけ・顔だけ」の大仏でしょう。

しかも複数あります。
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