こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【大仏造立の詔】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
江戸時代に堀直寄が作った上野大仏
一つは、上野公園にある「上野大仏」。
江戸時代初期に、堀直寄(ほりなおより)という大名が建てた釈迦如来の像です。
上野には徳川家の菩提寺・寛永寺ができる前にいくつかの大名の菩提寺があり、堀家もその一つでした。
戦国時代の死者を弔うため、この場所に作られたものでしたが、その後、地震や火災によって大仏本体もお堂も再建を重ね、安政の大地震でついに頭部が破損。
それでもなお堀家の寄進で修復はしましたが、ついに関東大震災では頭部が落下するという洒落にならない状態になります。
寛永寺が胴部を保管し、修復のめどが立たないまま戦時中に供出されてしまい、無残にもお顔だけが残されました。
そして、昭和の間に再建を願う祈願等が建てられながら、結局、お顔だけをレリーフとして残すことが決まり、今日に至っています。
お顔だけが残ったことから「これ以上落ちない」というへりk……もとい発想の転換により、受験生やその両親が参拝に来ることが多いとか。
また、JR東日本のポスターにも採用されたことで一部で話題になりましたね。
「上野でいちばん大きな顔してるのは、西郷さんだと思ってた」
そんなキャッチコピーが秀逸で思わず足を止めてしまう方もいるとか。たしかに遊び心のある宣伝ですよね。
首だけで3メートル 途中で金が足りなくなったから
もう一つは、和歌山市にある「無量光寺の首大仏」です。
なんだかホラー映画や怪談にでも出てきそうなお名前ですが、こちらは壊れて首だけの姿になってしまったのではなく、「デカいのを作ろうと思ったら、お金が足りなかった。仕方がないので首だけ祀ることにした」(超訳)という経緯だそうで。
なぜ作る前に気付かなかった(´・ω・`)
首だけで3メートルあり、ほぼ同じ高さの坐像を作ることもできたのではないかと……。
元々大福寺という別のお寺にあり、そのお寺が安政の大地震で全壊ののち廃寺になってしまったため、無量光寺に移されたとのことです。
こちらも「首から上にご利益がある」とされ、やはり受験生がよく参拝しに来るそうで。その理屈で行くと、脳や心の病気にもご利益あるんでしょうか。
まあ、そもそも仏様ですから、現世での姿形にはこだわらず、信ずる者にご利益を授けてくださるのかもしれません。
京の方広寺(家康が鐘にケチつけたお寺)にも豊臣秀吉が作らせた大仏がありました。
慶長伏見地震で壊れてしまったとき、秀吉が「自分の身すら守れない大仏とかナメてんのか!」(超訳)とブチ切れて矢を射掛けたといわれています。
当時秀吉は60歳くらいですし、立場からしても自分で弓を引いたかどうかはアヤシイですけれども。
その後、豊臣家がどうなったかを考えると……やっぱり仏像は大切にしたほうがよさそうです。
まあ、宗教や大きさにかかわらず、モノは大切にしないといけませんけどね。
あわせて読みたい関連記事
鎌倉大仏は誰が何のために作った? なぜ建物の中ではなく外に座っている?
続きを見る
地震大国・日本では過去に何度の大地震が起きたか?地震の歴史まとめ
続きを見る
鑑真は失明はしていなかった?日本に授戒を伝えた偉業は燦然と輝く
続きを見る
まんが戦国ブギウギ 慶長伏見地震で秀吉ガンギレ 方広寺の大仏なんて死んでまえ
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
平城京(奈良の都)ってどんなトコ? 田畑の下にある遺構は今なお発掘中
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
上野経済新聞(→link)
東大寺盧舎那仏像/Wikipedia
大仏/Wikipedia
上野大仏/Wikipedia
無量光寺の首大仏/wikipedia