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【源俊賢】
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道隆の信頼も得て順調な出世を遂げる
藤原兼家の全盛期であれば、彼に己の全てをベットすればよい――問題はその子の世代です。
兼家と嫡妻・藤原時姫の間には、三人の息子がいました。
円融天皇がまだ若いうちに譲位し、その弟である花山天皇が即位すると、その後、程なくして不可解な退位をしています。
兼家の二男である道兼が大きく関わった【寛和の変】であり、『光る君へ』でも描かれていましたね。
そして兼家にとって孫である一条天皇が即位すると、今度はまた別の争いが始まります。
さて、どの勢力につくべきか?
まさしく摂関政治のクライマックスであり、清少納言の『枕草子』や、紫式部の『源氏物語』などの制作背景として欠かせない要素――と、後世からすればそんな見どころになりますが、当時の貴族にとってはたまったものじゃなかったでしょう。
一つチョイスを間違えれば瞬時に落とされる。
そこをバランスよく泳ぎ抜いていくのが、この源俊賢です。
『光る君へ』の劇中では妹の明子に呆れられ、当初は無能な人物像にも映っていましたが、実際は一条天皇の時代にも、順調に出世を重ねてゆきます。
永延2年(988年)右少弁兼五位蔵人
永祚2年(990年)正五位下・右中弁
正暦3年(992年)蔵人頭
正暦4年(993年)従四位下
正暦5年(994年)権左中弁
長徳元年(995年)参議に任ぜられ公卿に列する
このころの源俊賢は、関白となった藤原道隆のもとで順調に出世を重ねていたのです。
妹が夫とした道長だけでなく、道隆ともきちんと関係を築いていたのは、素晴らしいバランス感覚ではありませんか。
しかもこの俊賢、上に媚びへつらうだけの嫌らしいタイプではなく、ライバルや下の者に対しても気遣いできる人物だったとも思わせます。
一条期の四納言
源俊賢には出世を競うようなライバルがいました。
『光る君へ』でも華々しく登場している以下のメンバーで【一条朝の四納言(しなごん)】とも呼ばれます。
圧倒的な華がありますよね。
何かと辛辣な藤原実資からすれば「おまえら、道長金魚のフンだな」という評価になりますが、この四人が有職故実、つまり当時の貴族に求められる才能があったことは確かです。
中でも藤原行成は、書道においては伝説級の人物として知られます。
かな書道が光る『光る君へ』「三跡」行成が生きた時代
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四人の実務能力はひとまず横に置き、出自からすると父が大きく失脚した俊賢は一歩出遅れたポジション。
それでもぬかりなく出世できたのは、妹が道長の妻になったことも影響したでしょう。
しかし、です。
道長にしたって、何もスンナリ出世できたわけではありません。
父の兼家から跡を継いだのは、あくまで長兄の道隆であり、その後、道兼がほんの一瞬だけ「七日関白」となる。
問題はその後です。
確かにポジション的には道長が一歩前にでますが、道隆の子である定子が一条天皇の寵愛を受け、その息子である藤原伊周・藤原隆家の兄弟が権勢を握るのです。
しかし……。
長徳2年(996年)に起きた【長徳の変】によって、流れは一気に道長へ傾きました。
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