比企能員

源平・鎌倉・室町

武器を持参せず殺された比企能員の変と生涯~鎌倉殿の13人佐藤二朗

個性豊かなメンバーが13人も揃う大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。

その中でも、何かクスクスと笑わせてくれるのでは?と期待させられるのが佐藤二朗さんです。

比企能員(ひきよしかず)という武将を演じるのですが、この方、二代目将軍・源頼家の舅にあたり、普通に考えれば最も権勢を振るえそうな立場にあります。

しかし、実際はそうでもない。

史実を見ても頼朝にかなり重用されている一方、なんだか婿殿(頼家)には振り回されそうで、そこが何だか哀愁漂いそうで。

実は最終的に北条時政と敵対し、【比企能員の変】に敗れて討死してしまうのです。

いったい何がどうしてそうなったのか?

比企能員の生涯を振り返ってみましょう。

 

出自不詳の比企能員

比企能員は阿波出身の武士とされ、実の父母や出自は不詳。

源頼朝の乳母であった比企尼の養子となり、義兄にあたる比企朝宗が亡くなった後に比企氏の家督を継いだとされています。

おそらくは朝宗に健康上の問題があり、世継ぎに恵まれる可能性が低かったため、よそから迎えられたのでしょう。

もともと比企氏は武蔵国比企(現・埼玉県比企郡及び東松山市)の豪族でした。

平将門を討ったことで有名な藤原秀郷(ひでさと)の末裔を称する家の一つ。

平将門の乱
平将門の乱はいつどこでナゼ起きた?首塚伝説を含めてスッキリまとめ

続きを見る

このため、義母である比企尼は頼朝が伊豆に流されると、夫と共に地元へ下り、事細かに頼朝の生活を支援したといいます。

源頼朝
史実の源頼朝はいかにして鎌倉幕府を成立させたか?53年の生涯まとめ

続きを見る

なぜ頼朝を支援したのか?

というと、そもそも東国での源氏は評判がバツグンに高いものでした。

八幡太郎で知られる源義家が【後三年の役】において、私財をなげうち東国武士に恩賞を与えた――そんな経緯があり、以来、根強く支持されていたのです(詳細は以下の記事へ)。

後三年の役
源義家を武士のシンボルに押し上げた後三年の役!わかりやすく解説

続きを見る

前九年の役
前九年の役で源氏が台頭! 源頼義と義家の親子が東北で足場を固める

続きを見る

つまり、義家の子孫である頼朝が比企氏に助けられ、一方で頼朝も、その恩に報いるべく、比企氏全体を取り立てる――そうした流れがありました。

 

上野・信濃の守護に

比企能員は、若き頃の記録がありません。

悪評も残っていないので、真面目に働いていた可能性が高いでしょう。

洋の東西を問わず、たとえ小さな諍いでも粗野な振る舞いがあれば大袈裟に記録されるものですが、能員にはその類の話がないんですね。

讒言ばかり言っていたかのような印象の梶原景時と比較してみると、能員の逸話の少なさがそれを物語っている気がします。

梶原景時
史実の梶原景時はなぜわざと頼朝を逃したのか?鎌倉殿の13人中村獅童

続きを見る

そんな能員の、幕府成立前の数少ない記録を見て参りますと……。

平家との戦いの合間に起きていた寿永二年(1183年)に起きた志太義広の謀反。

元暦元年(1184年)の源義高残党の始末など。

頼朝の命に従って着実に仕事をしていました。

平家との戦いでは、元暦元年(1184年)8月、源範頼に従って西国や九州にも渡っています。

源範頼
史実の源範頼はなぜ兄の頼朝に殺されたのか?鎌倉殿の13人迫田孝也

続きを見る

その翌年、鎌倉で頼朝と平宗盛が対面したときには両者の取次ぎもしているので、東西を忙しく行き来していたようです。

奥州合戦にも出陣。華々しい活躍こそなかったようですが、忠実かつ着実な能員は頼朝に高く評価されました。

バリバリの武人タイプでもないことから、やはり鎌倉殿の13人で佐藤二朗さんのキャラが活きてきそうですね。

建久元年(1190年)秋の頼朝上洛にも供奉しており、その際、頼朝の推挙によって右衛門尉に任じられ、さらに上野・信濃の守護にも任じられています。

ご存知のように守護地頭鎌倉幕府が権力を確定させた重要なポジション。

守護地頭
守護地頭の仕事や違いがバッチリわかる! 頼朝はなぜ設置したのか

続きを見る

能員の屋敷は、大切な京都からの使者や僧侶の宿所に用いられたといいますし、頼朝から並々ならぬ信任を受けていたのは間違いないでしょう。

建久六年(1195年)の頼朝上洛の際には「義経の残党が東海道付近におり、頼朝を待ち構えている」という噂が流れ、その対応に比企能員と千葉常秀があたっています。

※千葉常秀は祖父・千葉常胤と共に平家との戦いや奥州合戦に参加していた実戦経験豊かな御家人

 

娘の若狭局が二代目将軍の妻に

建久九年(1198年)は比企能員にとって躍進の年となりました。

娘の若狭局が、頼朝の嫡男で二代目将軍・源頼家の妻になったのです。

若狭局は同年中に一幡を生んでいるので、夫婦仲も良かったのでしょう。

結婚の前から関係があった可能性もありますが、この時代ですからそれもままある話。

しかし、その栄光も長くは続きません。

正治元年(1199年)に源頼朝が亡くなってしまうのです。

新将軍となった頼家は、能員にとっては婿であり、順当に行けば孫の一幡がいずれ将軍を継ぐのですから、重臣の中でも非常に有利な位置にいます。

当然、十三人の合議制にも入ります。

しかし、そもそもこの制度が「専横のきらいがある頼家の歯止め役」という観念(名目)で作られたことを考えると、「合議制ができる前の能員は、頼家にとって都合の良い義父だった」可能性が否定できません。

頼家は、能員の息子たちを含めたごく一部の若者を指名し、こう宣言していました。

「彼らを通さなければ、自分への目通りは許さない」

要は、古株の重臣たちを軽んじた政治ということですね。

頼家が近習らを引き連れて能員の家に行き、蹴鞠などで憂さを晴らすことも多かったと言います。

おそらく母の北条政子や実家を快く思ってなかったのでしょう。

しかし北条氏からすれば「頼家が母の実家より嫁の実家をアテにしている」ことになり、関係悪化は避けられません。

頼家にしてみれば、何かとうるさい母親や北条氏より、愛する妻や優しい義父のほうが好ましかっただけかもしれませんけど。

ドラマでは、佐藤二朗さんがニコニコしながら婿殿に振り回される姿を今から期待してしまいますね。

ただし、為政者としては、あまりに配慮に欠ける行動でした。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-