永享の乱

自害する足利持氏(左)と6代将軍・足利義教/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

室町幕府と鎌倉府が対立した「永享の乱」足利持氏の挙兵で関東に何が起こった?

室町時代は「ナントカの乱」の時代と言っても過言ではありません。

応仁の乱】から戦国時代へ突入していくのは日本中の誰もが知っていると思われますが、実はそれ以前から物騒な事件は頻発。

今回はその一つ【永享の乱(えいきょうのらん)】に注目です。

いったい何が起きたのか?

無理やり三行でまとめてみますと以下の通り。

・永享十年(1438年)8月から翌年2月にかけて

・鎌倉公方の足利持氏が、室町幕府六代将軍・足利義教および関東管領の上杉憲実と対立

・結果として足利持氏が敗れ、鎌倉で切腹した

西と東のリーダーが揉め、永享11年(1439年)2月10日、足利持氏が切腹に追い込まれて、一応、乱の収束は見ていますが、この一件で様々な悪影響を残してしまいます。

それは一体どんなものだったか。事件全体を振り返ってみましょう。

『結城合戦絵詞』足利持氏自害の図/wikipediaより引用

 


鎌倉府の長官・鎌倉公方

室町幕府は、京都に本拠地のある政権です。

『洛中洛外図屏風』に描かれた花の御所こと室町殿/wikipediaより引用

同時に、鎌倉幕府の残党が力を取り戻さないようにするためなどの目的で【鎌倉府】という支店のようなものが置かれます。

ここのトップが【鎌倉公方】で、足利尊氏の四男・足利基氏とその子孫たちが代々務めました。

そして、鎌倉公方の補佐を務めるのが【関東管領】です。

こちらはすったもんだの末、山内上杉氏と犬懸上杉氏によって世襲されています。

「山内」とか「犬懸」というのは、血統の区別のためにつけられている呼び名で、遡れば同じご先祖、要するに親戚です。

長く続いた家ほど子孫が増えて枝分かれが多くなるものであり、例えば藤原道長の子孫が二条家や九条家などに分かれていくのと同じですね。

【鎌倉府のポジション】

室町幕府(足利将軍)

鎌倉府(鎌倉公方と補佐の関東管領)

なお、歴代の鎌倉公方は以下の通り。

【歴代の鎌倉公方】

1.足利基氏

2.足利氏満

3.足利満兼

4.足利持氏

5.足利成氏

足利政知(鎌倉に入れず)第7代将軍・足利義勝の異母弟

足利成氏(鎌倉に入らず)第4代鎌倉公方・足利持氏の子

鎌倉府では、当初10カ国の軍事権を保持しておりましたが、後に行政機能も有していくことになります。

10カ国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐(後に出羽と陸奥が追加)が対象となりました。

 


六代将軍の跡目問題から始まった

では、永享の乱は何がキッカケとなって起きたのか?

発端は、足利義教の将軍継承時点に遡ります。

五代将軍・足利義量(よしかず)は跡継ぎのないまま早世し、ご隠居様だった四代将軍・足利義持がしばらく政務を行っていました。

足利義持/wikipediaより引用

しかし、義持は自分が病に倒れ、寿命が見えてきても六代将軍を指名しません。

その理由が「どうせ俺が死んだら誰も遺言なんて聞かないだろ」(超訳)という思い込みだったというのですから、諌めてくれる人はいなかったんですかね……。

構図がまるっきり両統迭立や南北朝問題の発端と同じです。

義持自身、父親である三代将軍・足利義満の政策を否定してきたからこそ、そう思ったのかもしれませんが。

そして義持が亡くなった時、存命の弟たちは全員が出家していました。

本来は、後継者問題が起きないようにするための措置ですが、今回のケースだと少々面倒な措置が必要になります。

出家した者の中から六代将軍を選ぶのであれば、還俗して髪を伸ばし、それから元服という手順で進めなければならないからです。

幼いうちからお寺に入っていると、たとえ本人が大人になっていても

【元服を済ませていない=世間的には成人していない】

と見なされてしまい、順にクリアしていく必要が出てきます。

ここに目をつけて「俺が次の将軍になれる!」と早合点したのが、ときの鎌倉公方・足利持氏。

持氏「私が将軍になりましょう!」

意気揚々と自ら立候補すると意外な答えが戻ってきます。

幕府「次の将軍は、既にクジで決めました」

持氏「は???」

足利持氏は、初代鎌倉公方・足利基氏の子孫です。

基氏は尊氏の息子ですので、持氏もれっきとした足利氏の一員。

『血筋からして、俺が将軍職に就くことは不自然ではない!』と思ったのでしょう。

さらに彼の場合は、義持の猶子になっていたことがあるので、たしかに「他に候補者がいなければ将軍の座が回ってくる」という可能性も否定できませんでした。

しかし、義持が亡くなった後、幕府の中枢たちは「義持様のご子息たちからクジで決めて、当たった人に還俗してもらおう」ということで一致。

実際、石清水八幡宮でクジを引き、六代将軍に選ばれがのが足利義教です。

足利義教/wikipediaより引用

クジというのはあくまで出来レースであり、形式上、神託を仰ぐということにして、最初から六代将軍は義教に決まっていた――そんな見方も根強いというか、その方が自然ですが、永享の乱に大きくは関係ないので割愛しますね。

問題は持氏です。

「将軍宣下まだかなー♪まだかなー♪」

ウキウキしていた持氏は、

「次の将軍は義教様に決まりました」

という知らせを聞いて勝手にマジギレ。完全にへそを曲げてしまいます。

 


子供並みにゴネ続ける持氏

将軍になれると思っていたのに、直前で落選――。

ならば出直して再起をうかがうか、あるいは別の路線で頑張るしかない……と前向きに捉えられないのが、身内争いの絶えない源氏のサガなんでしょうか。

足利持氏はこの後、徹底的に子供じみた行動をすることになります。

「義教の将軍就任祝いを贈らない」

そんな地味な嫌がらせから始まり、「永享」への改元に応じず「正長」を使い続けたり、本来は将軍が決める鎌倉五山(特に権威がある鎌倉の五つの禅寺)の住職を勝手に決めてしまったり。

目に見えて「義教が将軍だなんて認めん!俺が本当の将軍だ!!」という態度を取り始めたのです。子供か。

鎌倉府でも「マズイですよ……」と諌める人はいました。

その代表格がときの関東管領・上杉憲実(のりざね)です。

上杉憲実像/wikipediaより引用

ところが持氏は、憲実の忠告に耳を傾けません。

多くの場合、こうしたサポート役のほうが主人よりも年長者ですが、鎌倉府については諸々の事情で憲実のほうがだいぶ年下でした。

また、関東管領が将軍から直接任命される(上杉氏の世襲を将軍が認定するような感じだった)という慣例も気に入らなかったのか、持氏は憲実から諫言されるたびに怒りを燃やしていきます。

「忠言耳に逆らう」という言葉がある通り、こういうときに諫言してくれる家臣こそ大事にしないといけないんですけどね。

いつの時代もこうした状況は難しいものです。

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