中原親能

源平・鎌倉・室町

中原親能は大江広元の兄?朝廷官吏から頼朝の代官に転身した幕府重鎮

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鎌倉武士も徐々に信頼を得て

しかし中原親能も完璧ではありませんから、自分がトラブルに巻き込まれかけることもあります。

これまた文治四年の7月が終わりかける頃、後白河法皇から頼朝の下へ

「中原親能が他人の領地を横取りして年貢を差し押さえている」

という知らせが届きました。

軍事的な力を持たない中原親能が力尽くで物事を押し切る――とは、なんだか釈然としませんね。

そもそも親能は、西日本を中心に膨大な荘園地頭職を持っていましたので、経済的な困窮は考えにくい状況。

頼朝もそのあたりへの違和感や、日頃の信頼からか、まずは親能へ問い合わせると、当然ながら本人にそんな覚えはありません。

しかし、”土地に関するトラブル”については思い当たるフシがありました。

この年6月に

「後白河法皇の持っている荘園のうち、二ヶ所から年貢が届かない」

という話があり、親能が調査させていたのです。

二箇所の荘園とは、駿河国蒲原御庄と越後国大面御荘。

結論から言いますと、米の早稲(わせ)と晩生(おくて)の収穫期の差から、あらぬ誤解が生じ「親能が着服した」と勘違いされてしまったのです。

当時の鎌倉関係者が、後白河法皇からさほど信頼されていなかった……というのが見えてしまう一件と言えましょうか。

他にも、この時期の京都・奈良では武士を信用するべきかどうか、揺れ動いていたような気配をうかがわせる出来事がありました。

それは文治四年11月のこと。

とある事件の調査で奈良へ向かった武士が、怪しまれて乱闘騒ぎになり、双方に死傷者が出てしまいました。

親能は報告を受け、鎮圧のため兵を向かわせることも考えたようですが、朝廷から

「『関東武士が奈良へ攻め込もうとしている』という誤解を招きかねないので、兵を差し向けるのは止めるように」

と命じられ、派兵は取り止めに。

奈良の人々にとって、平家による南都焼討はたった7年前のことですから、僧兵たちが見知らぬ武士の集団を見て、ナーバスになるのも仕方がありません。

こうした穏便な態度に対し、後白河法皇も少しずつ信用し始めたのか、文治四年12月には

「六条殿などの修理についてよく働いてくれた」

というような言葉を大江広元にかけています。

このことは広元から頼朝へ報告された、と『吾妻鏡』に記されていますが、おそらくは親能とも語り合い、喜んだのではないでしょうか。

時系列が少々前後しますが、このときのことと思われる話が、12月30日の部分に出ています。

「六条殿の修理について、割り当てられた分は無事終わり、後白河法皇からお褒めの言葉をいただきました」

と、これに対し頼朝は大いに喜んだようです。

「鎌倉の者たちにとっても、直に働いた者たちにとっても名誉だ」

さらにこの月は、親能にとって個人的に嬉しいこともありました。

秋頃から病みついていた猶子の大友能直(よしなお)が、床上げしたのです。

この人は頼朝にも非常に気に入られており、推薦を受けて10月に左近将監へ任官されていました。

しかし病気のため、すぐには鎌倉へ行けていなかったので、12月17日に回復の報告を兼ねて挨拶に行ったのでした。

頼朝も大いに喜び、すぐ眼前に呼び寄せたそうです。

頼朝はよく「冷徹」といわれますが、気に入っている人への反応はわかりやすいといいますか、実に素直ですね。

 

奥州藤原氏の征討

文治五年(1189年)7月には、奥州藤原氏討伐にも従軍。

頼朝はこのとき、親能以外にも文官タイプの人物も数名連れて行っていました。

おそらく、

・戦が終わった後の統治をスムーズに進めること

・重要な事柄の記録を取ること

・今後鎌倉へ新造する寺院について知見を得ること

・京都へ奥州の事情を直接伝えること

などなど、今後の政治や建築に関する仕事をやらせる意図があったのでしょう。

また、猶子の大友能直が従軍しているので、その関係もあるかもしれません。

能直は常に頼朝のそばに控えていて、特別扱いされていました。彼にとっては初陣でもありましたので、最初は実戦の様子を見せておき、状況に応じて前線に出すという予定だったのかもしれませんね。

『吾妻鏡』の文治五年(1189年)8月9日には、親能が宮六傔仗近藤七国平(宮道国平)に

「能直はこの戦が初陣なので、あなたがよく面倒を見てやってください」

と頼んでいたことが書かれています。

しかし国平は、これをかなりアグレッシブな方向で受け取ります。

というのも、

・夜中に頼朝の寝所で宿直を務めていた能直を呼び出し

・一緒に阿津賀志山を越え

・藤原国衡の近臣親子を討ち取る

という行動に出たのです。

「面倒を見てくれ」という文言を「手柄を立てさせてほしい」と受け取ったのでしょうか……。

国平は平家方だった斎藤実盛(さねもり)の甥です。

実盛が滅んでしまったため、一度、上総広常の元で預かり囚人になっていましたが、その後、広常が上意討ちになってしまったため、次に親能へ預けられていたという経緯があります。

そして親能が頼朝に取りなし、このとき能直につけられていました。

奥州合戦では元・平家方の預かり囚人のうち、素行に問題がないと判断された者が参戦を許されていたので、彼もその一人だったのでしょう。

おそらく国平は、そういった経緯からも「ぜひとも手柄を立てなくては!」と意気込んでいたのでしょう。

このアグレッシブな行動については特に罰されたりはしていないので、問題にはならなかったようです。

しかし8月26日に別の問題が起きます。

この日、頼朝の宿所に、奥州藤原氏の当主・藤原泰衡を名乗る者からの手紙が投げ入れられたのです。

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「総大将の宿所のそばへ、そんな怪しそうな者の接近を許していいの?」

そうツッコミたくなりますが、吾妻鏡の記述ですので、若干以上の脚色があると考えておきましょう。

手紙の内容はこうです。

「義経びいきだったのは父の藤原秀衡であり、私(藤原泰衡)はそうではありません。

貴方が義経を追えと言うから首を挙げたのに、なぜ今度は私が追われているのでしょう?

陸奥と出羽はもう貴方に占領されてしまったのですから、私の命だけは助けてください。

もしお慈悲をくださるのなら、お返事を比内郡(秋田県大館市)に落としておいてください」

これを親能が読み上げたということになっているのですが、なんというか、その……あまりにも卑屈すぎるといいますか。

「試しに返書を比内に置いてみて、侍を待機させておき、拾い上げた者を捕らえて泰衡の居場所を聞き出しては?」

土肥実平がこう献言したところ、頼朝は答えています。

「比内に返事を置けと言っているのだから、泰衡は比内のどこかにいるのだろう。返事など書かず、手分けして探せば良い」

最初から許す気がないので、

返事を書く=泰衡の要求を受け入れて一命を許すと受け止められる

ことを防いだのかもしれません。

結果的に、泰衡は代々の郎党である河田次郎によって討たれ、首となって頼朝と対面します。

ちなみに、その河田次郎は頼朝によって「譜代の者が主人を裏切るとは許しがたい」という理由で、斬罪に処されました。

おそらく、父・源義朝の最期を連想して気分を害したのでしょう。

 

親能の仕事は合戦が終わってから

さて、戦の決着がついてからが、中原親能たちにとっては本番です。

9月10日には中尊寺の代表者が「寺を存続させ、逃げてしまった農民たちを呼び戻してほしい」と願い出てきました。

頼朝は願いを聞き届け、農民たちへ「早く元住んでいたところへ戻るように」と命じる書面を、親能に作らせています。

同時に中尊寺には、奥州藤原氏が建立したお堂などについて報告書を作るよう命じました(後日、親能と比企朝宗から頼朝に献上)。

また、10月5日には奥州合戦で手柄を挙げた手越家綱という武士が「駿河国の鞠子という村に、農地にあぶれている民を呼び、駅馬を経営させたいのです」と申し出てきました。

頼朝はこれを許し、親能に取り計らうよう命じています。

現代風に置き換えて言うと、

「求職者を集めて農業や交通機関で働かせたいので、この前の働きへのほうびとして、村をひとついただけませんか」

という感じでしょうか。

村ひとつを与えるだけで失業者を世話してくれるというのですから、頼朝としては悪い出資ではなかったでしょう。

建久元年(1190年)秋の頼朝上洛では、事前に六波羅の屋敷や、諸方への贈り物を担当しています。

ここでは広元と手分けして行いました。

二人とも先に京都へ到着しており、11月7日の頼朝京入りを出迎えています。

さらに上洛の際に頼朝の官位が上がったことに伴い、翌建久二年(1191年)1月15日には【公文所】が【政所】へと改められました。

【政所】と同時に【問注所・侍所・公事奉行人】の役職も再度任命されています。

親能は、公事奉行人の一人として名が挙がっていました。

これは役所に所属せず、頼朝の直下で実務に携わる文官のことです。仕事内容は、親能にとっては変わらなかったと思われます。

以降も基本的には訴訟の処理や、京都で起きた出来事の連絡、仏事などで登場。

建久五年(1194年)の末には、翌春の頼朝上洛に備え、御家人たちへの伝達役も担いました。

以下の通りです。

「頼朝様から京都へ上るようにとのご命令です。

もし事情があって京都へ行けない場合は、鎌倉へ来て説明するように。

その場合は別の仕事があります。

遅れた場合はお怒りを買うでしょう」

文書自体は二階堂行政が担当し、親能の名で発行されたようです。

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上洛後は寺院参詣などに随行した他、頼朝の宿所である六波羅邸を吉田経房が訪れた際に給仕を務めました。

この訪問は私的な面が強かったらしく、後白河法皇時代の政治の話や、現在の政務状況などを何時間も語り合ったといいます。

後白河法皇は本来皇位を継ぐ予定はなかったために、当時としては破天荒なタイプ。

長く仕えた経房にとっては名残惜しく、またそれを語り合う相手として、半分政敵のようなものだった頼朝を選んだのかもしれません。

経房が帰った後、親能が経房に礼品として砂金や馬を届けています。頼朝からの厚意でしょうか。

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