鎌倉の大仏は外に座り、奈良では大仏殿の中にいる――そう思っている方は多いでしょうし、実際、今はその通りです。
しかし、それが当たり前ではない時代がありました。
永禄十年(1567年)10月10日、松永久秀と三好三人衆の戦火で大仏殿が焼け落ちると、江戸時代に入っても建て直されず、屋根のない場所で雨風にさらされ続けたのです。
現在の大仏殿で落慶供養が行われたのは宝永六年(1709年)ですから、炎上から実に142年。
なぜ、それほどの年月がかかったのか?

東大寺大仏炎上イメージイラスト
大仏殿が再びそびえ立つまでの道のりを振り返ってみましょう。
一夜で焼け落ちた大仏殿
松永久秀の軍勢が、東大寺に陣取る三好三人衆の軍勢へ夜討ちをかけたのは、前述の通り永禄十年(1567年)10月10日の夜。
戦いの最中に火が回り、大仏殿は丑の刻(午前2時ごろ)に焼け落ちます。
奈良・興福寺の僧が書いた『多聞院日記』には、猛火が天に満ち、ほとんど一瞬で消えてしまったという様子が記されています。

東大寺大仏殿炎上イメージイラスト
大仏も無事では済まず、頭が焼け落ちてしまいました。
火をつけたのは誰だったのか?
後に松永久秀が織田軍との戦いで派手に散ったせいか、この戦火についても久秀の仕業と描かれがちです。
しかし、その点は謎です(本記事末の関連記事に詳細がございます)。
ともかく焼け落ちてしまった以上、もはや問題はそこではありません。
どうやって直すのか?
仮の屋根まで大風で倒れた
「首のない大仏をそのまま放っておくわけにはいかんやろ」
焼け落ちた頭を銅板で応急的に補い、仮の建物を建てたのは大和国山田村の領主・山田道安(やまだ どうあん)でした。
同年永禄十年(1567年)のことです。
しかし、その仮屋もやがて大風で倒れてしまい、東大寺によると大仏はそれから100年近く風雨にさらされることになりました。
鎌倉の大仏と同じ「露座(ろざ)」の姿です。

鎌倉の大仏が外に座っているのは、地震や津波などの天災により、大仏殿が消失したためと考えられています。
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鎌倉大仏はなぜ外に座っている?地震や津波で倒壊したとされる大仏殿
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一方、東大寺の大仏は、なぜすぐに建て直せなかったのか?
戦国の争乱が続いていたこともありますが、もうひとつ大きな壁がありました。
材木不足です。
研究者の海野聡氏は著書『森と木と建築の日本史』の中で、規模の大きな大仏殿には膨大な量の巨木が必要で、近世の荒れた山林では奈良時代のような大木を期待するのは難しかったと指摘しています。
要はお金だけでなく、柱にする木そのものがなかったんですね。
公慶が先に大仏を直した
再建計画がようやく動き出したのは、炎上から117年後の貞享元年(1684年)のこと。
雨ざらしの大仏を見て心を痛めていた東大寺の僧・公慶(こうけい)が、幕府の許しを得て、寄付を募る勧進(かんじん)を始めました。
公慶はまず大仏そのものの修理に取りかかります。
頭と台座の蓮の花びら18枚を鋳造し直して、元禄五年(1692年)には開眼供養へ。
ただし、あの巨大な大仏殿を建てるとなれば、寄付だけで足りるはずもなく、公慶が頼ったのが、五代将軍・徳川綱吉の母である桂昌院(けいしょういん)でした。

桂昌院/wikipediaより引用
綱吉や桂昌院と公慶を引き合わせたのは、彼女の信任が厚かった僧侶の隆光(りゅうこう)。
元禄六年(1693年)2月、公慶は江戸城三の丸で寺の宝物を見せ再建の意義を説いた、と研究者の安藤優一郎氏が著書『歴史を動かした徳川十五代の妻たち』の中で記しています。
そこで心を動かされた桂昌院。
息子の綱吉を動かし、幕府は諸大名や幕臣に対して、石高100石につき金1分の拠出を命じました。その結果、再建費用として10万両が確保されます。
しかし、まだ問題が残っています。
そう材木不足です。
柱は寄せ集め、梁は日向から
前出の『森と木と建築の日本史』によると、現在の大仏殿の柱は1本の木ではなく、芯になる細い柱の周囲に台形の材木を張り合わせて太くした、いわば寄せ集めの柱。
柱に縦の筋が入り、帯状の金具で留めてあるのはそのためです。
一方、横に渡す梁(はり)は寄せ集めでは強度が足りず、どうしても長さ約23mの一本物が必要となる。
そんな巨木がようやく見つかったのは元禄十五年(1702年)、日向国の白鳥神社(宮崎県えびの市)の境内に立つ2本のマツでした。
一体どうやって奈良まで運んだのか?
巨大すぎて船に載せる方法がなかったため、船底の栓を抜いて船をいったん沈め、満潮のときに木材を船の上へ運び、干潮のときに栓をして水を抜いたといいます。
言われてみれば納得ですが、そんな方法を思いつき、なおかつ実行するのが凄まじいですよね。
船は、瀬戸内海から淀川、木津川をさかのぼって巨木を運び、その後、陸路で東大寺へ着いたのは、伐り倒してから約1年後のことでした。
完成を見られなかった公慶
苦労に苦労を重ねて再建を進めた公慶。
残念ながら宝永二年(1705年)に亡くなってしまい、大仏殿の完成を見届けることはできませんでした。
同年、再建を後押しした桂昌院も世を去っています。
大仏殿の落慶供養が盛大に行われたのは、それから4年後、宝永六年(1709年)のことです。
実に炎上から142年を経て、大仏はようやく再び大仏殿に収まりました。
ただし、奥行きはそのままでも幅を両脇から二間ずつ縮めたため、いまの大仏殿は奈良~鎌倉時代の大仏殿よりも小さくなっています。
それでも世界最大級の木造建築であることに変わりはなく、今も凄まじい存在感を放っていますよね。

東大寺大仏(盧舎那仏坐像)
大仏殿を訪れたときは、柱に入った縦の筋を探してみてください。
巨木が手に入らなかった時代の苦労が、いまもそこに残っています。
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参考文献
- 海野聡『森と木と建築の日本史』(2022年4月 岩波新書)
- 安藤優一郎『歴史を動かした徳川十五代の妻たち』(2011年6月 青春文庫)
- 大石学編『徳川歴代将軍事典』(2013年 吉川弘文館)
- 戦国合戦史研究会編『戦国合戦大事典 大阪・奈良・和歌山・三重』(1989年 新人物往来社)
- 東大寺「江戸再興」


