愛加那

愛加那(右)と西郷隆盛/wikipediaより引用

幕末・維新

愛加那(西郷2番目の妻)はどんな女性?菊次郎を産んだ奄美の島妻

生涯において3人の妻を娶った西郷隆盛

その中で最も印象深い奥さんが、2番目の妻にあたり、明治35年(1902年)8月27日が命日の愛加那(あいかな)かもしれません。

大河ドラマ『西郷どん』では、目鼻立ちのクッキリした二階堂ふみさんが熱演。

薩摩と琉球の間に位置する奄美大島の人であり、西郷が島送りで流されたときに現地で知り合った妻、通称・島妻(あんご)でした。

「黒糖地獄」とも呼ばれる圧政が敷かれていた島で、2人は如何にして知り合い、結婚へ至ったのか。

当時の西郷や島の情勢に触れながら、見て参りましょう。

 


奄美大島へ遠流

安政5年(1858年)。

京都の僧侶・月照と入水事件を起こした西郷について、薩摩藩ではその処分に頭を悩ませました。

※以下は月照の事績まとめ記事となります

西郷と共に入水自殺した月照~京都清水寺の住職はなぜ自死を選んだ?

続きを見る

幕府の目を考えれば、堂々と鹿児島で暮らさせるワケにもいかない。

では、どうするか?

藩では西郷の死を偽装し、墓まで作りました。

「菊池源吾」という偽名まで用意。さらには年間6石という、僅かな扶持米だけ与えられ、西郷は奄美大島に遠流となりました。

まぁ、死刑を免れただけでも、寛大な処分とも言える状況だったでしょう。

 


「黒糖地獄」凄まじき

豊で美しい自然が特徴の奄美大島。

かつて、この島の人々は琉球王国に属しながら暮らしていました。

奄美大島

それが一変したのが、慶長14年(1609年)のことです。

薩摩藩による「琉球侵攻」により、支配者が変わってしまいます。

島へ攻め込んだ島津忠恒(家久)は、奄美大島に圧政を敷きました。

※真田幸村(真田信繁)を「日本一の兵(つわもの)」と記したのは、この忠恒です

島津忠恒
四兄弟の跡継ぎ島津忠恒は義弘の息子なれど謀殺や嫁いびりが酷い?

続きを見る

真田幸村(真田信繁)
史実の真田幸村(信繁)は本当にドラマのような生涯を駆け抜けたか?

続きを見る

薩摩藩が栽培を奨励したのが、金になるサトウキビでした。全ての平地にサトウキビが植えられ、斜面にまで段々畑が作られました。

島民の食糧確保のための田畑は、最低限のものしか作ることができません。

そこで彼らは、猛毒を持つ蘇鉄の実からデンプンを得て食べていました。

毒のある蘇鉄は、面倒な毒抜きをしなければ食べることすらできません。そうしたものを口にしなければならないほど、島津家の圧政は凄まじかったのです。

奄美大島で作られる蘇鉄味噌/photo by Hhaithait wikipediaより引用

そこまでしてサトウキビを作っても、島民の生活は貧しいままです。

家を売り、田畑を売り、売る物が何もなくなった人は、「家人(ヤンチュ)」という奴隷身分にまで自らを落としてしまいました。

彼らは家畜小屋のような場所で寝起きし、食事は焼酎を造った時に出る酒粕と……そんな状態で、昼夜問わず働かされたのでした。

多い地域では、人口の4割がこの「家人」だったというからおそろしいものです。

黒糖地獄――。

かくして薩摩藩の奄美大島に対する搾取は、そう呼ばれるようになりました。

搾取は薩摩藩の財政を潤し(それでも色々あって金は不足したのですが)、幕末維新の政局をリードする原動力ともなったのです。

 


島での暮らし

話を西郷隆盛に戻しましょう。

当初の西郷は、島生活が嫌でならなかったと言います。

西郷隆盛
西郷隆盛 史実の人物像に迫る~誕生から西南戦争まで49年の生涯

続きを見る

富豪の龍左民のもとで暮らしたものの、すぐに嫌気がさし、自給自足の生活をスタート。そんな西郷が物珍しかったのか、島民は西郷の家を覗きにしょっちゅう来ます。

鬱屈を抱えて大木相手に相撲を取り、木刀を振り回す様子を見て、彼らはこう呼びました。

「大和のフリムン(狂人)」

当時の薩摩藩の人々は、島の住民を一段下に見ておりました。

西郷も例外ではありません。

ストレスも溜まっていたのか、当時の書状には島民の態度に困惑し、「けとう」と呼んであきれる様子が記されています。

そんな西郷ですが、島民について気に入ったことがありました。

目鼻立ちクッキリとした美女が多かったのです。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-幕末・維新
-, ,

×