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原爆で命を落とした元宝塚の園井恵子/Wikipediaより引用




週刊武春 明治・大正・昭和時代

戦火の中の宝塚~原爆に苦しみ死んだ者もいた それでも復活を遂げた

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1913年に前身の宝塚唱歌隊が結成されてから、かれこれ一世紀以上の歴史を持つ宝塚歌劇団。

生い立ちから現代に至るまでの流れを以下の記事に記させていただきましたが、どうしても書き足りない部分がありました。

宝塚歌劇団の歴史をスッキリ解説! 小林一三の魂はタカラジェンヌに引き継がれた

それが戦火の中の宝塚です。

宝塚最大の特長が『キラキラの非日常感』であることは今更説明するまでもないでしょう。
日本で最も見目麗しき美女たちが、鍛え抜かれた美声やダンスを披露する――。

そんな浮世離れした世界だからこそ、灰色で殺伐とした戦争中は、同歌劇団にとって非常に辛い時期でありました。

国内は『ぜいたくは敵だ』というスローガンのもと、豪華絢爛な舞台が許されるワケもなく、気がつけば関西地方にも空爆が襲うようになり、そして失意の敗戦へ……。

宝塚は、こうした苦難をいかにして乗り越え、見事に復活を遂げることができたのか。
そこには幾多のドラマがありました。

 

太平洋戦争の直前にアメリカで公演していた!?

1939年(昭和14年)。
当時、宝塚少女歌劇団が海外公演をしてた、と言うと意外に思われるかもしれません。

前年には、日中戦争が始まっておりましたし、それから約2年後にはアメリカとの戦いに進んでいくのです。とても海外でショーを披露することなど出来そうにありません。

しかし、劇団員たちは豪華客船で太平洋を渡り、ニューヨークで公演を披露するのでした。
この数年後、この国の人々と敵対するとは夢にも思わなかったかもしれません。

このニューヨーク公演の劇評はなかなか辛辣ではありました。が、一方で、劇団創設者にして日本エンタメ界の改革者・小林一三としては手応えを感じる部分もあったようです。

小さな事故は、帰国の途中で起きました。

帰りの船舶に、カナダのバスケットボールチーム選手も同乗。彼らは日本で行われる試合に参加する予定でした。
若い者同士ですから会話も弾みますし、カナダの選手たちは宝塚の公演も見に来てくれていたそうです。
劇団員たちは感謝し、日本での試合にはきっと駆けつけますと約束しました。

彼女らは約束を守り、試合観戦に向かいます。
と、これがマスコミにバッシングされたのです。

「宝塚の女どもは、チャラチャラと着飾ってカナダ男の試合に押しかけた挙げ句、夕食までともにとって恋人気取りだった」
マスコミのスクープしたニュースに、日本全国が激怒しました。

「中国ではお国のために日本男児が戦っているのに、外国男といちゃつくとは言語道断である」
大げさな物言いですが、時代が時代だけに仕方のないことだったのかもしれません。現代ですら、アイドルのお泊まり疑惑は報道が過熱したりします。

しかもこの騒ぎは、マスコミだけにとどまらず、しまいには陸軍憲兵隊まで調査に乗り出す始末。
劇団関係者は軍部から呼び出しを受けた挙げ句、こっぴどく叱られました。

「けしからん連中だ、国民が怒るのももっともだ。陸海軍も国賊だと思っている!!」
吊し上げを浴びせられると同時に、劇団関係者は陸軍の狙いも察知していました。

「中国大陸で戦う兵士たちに、歌劇団の少女を慰問に送り込めばいい景気づけになるぞ」
と、国策に従って公演を行うよう、誓約をさせられたのです。

これが、後の宝塚に大きな影を落とすことになりました。

Wikipediaより引用

 

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国威発揚の一環で演目が戦時色に変わる

1940年(昭和15年)、8月。宝塚のファンたちはあることに気づきました。
グランド・ショウの『レッド・ホット・アンド・ブルウ』が、『光と影』に改称されたのです。

「レビュー」という言葉も消えました。
真珠湾攻撃はまだ先のこととはいえ、既に「欧州模倣はやめて日本的な歌劇とすべき」として、外来語が消され始めたのです。

欧州スタイルが売り物の宝塚だって、横文字をやめた――。
そうなれば国民の気も引き締まるだろう、という狙いもあったことでしょう。

同じ年、ついに全国のダンスホールが閉鎖されるに至り、1943年(昭和18)にはジャズ演奏も全面禁止となります。
代わりに、軍歌による歌謡ショーが公演されることになりました。

1940年(昭和15年)の公演『太平洋』では、砂浜で少年たちが海軍に入ることを憧れとして語る場面がありました。

戦争は宝塚の中にも着実に入り込み、そして舞台上で再現されていくのでした。

『東亜の子供達』
『太平洋の子供達』
『赤十字旗は進む』
そして最後の公演『翼の決戦』

Wikipediaより引用

タカラジェンヌたちは、中国に送り込まれたスパイや、凛々しい兵士を演じました。
その勇姿は、少年たちの憧れの的にもなるほど。
かつて宝塚を見る男は女々しいと笑われたものですが、皮肉にもこうした国策演目は受け入れられたのでした。

もちろん生粋の宝塚ファンんとっては嘆かわしいばかり。
華麗な舞台に銃声が響き、スターたちが軍服を着ることに失望していました。

それでも宝塚は、戦争によって日本の景色がモノクロに塗りつぶされてゆく中、ただひとつ色あざやかな夢の場所であったのです。

1943年(昭和18年)3月、劇場封鎖を通告されて最後の舞台となった『翼の決戦』。
これが最後の舞台だと押しかけた観客たちは、頰を涙で濡らしてこの公演を見届けます。

公演が終わってもファンたちはその場を去ろうとはせず、ついには警官隊まで出動するほどの大騒ぎになったのでした。

 

「アン・ドゥ・トロワ」ではなく「一・二・三」

この時代、劇団員たちの苦労は並大抵のものではありませんでした。

宝塚のトレードマークであった緑の袴ではなくモンペを履くにとどまらず、とにかく物資が入手できません。
バレエダンスのためのトゥシューズ。
ストッキング。
食料や日常品すら事欠くのですから、こうした「贅沢な欧州かぶれ」品を手に入れることは至難の業であります。

敵性語も追放され、バレエの練習でも「アン・ドゥ・トロワ」ではなく「一・二・三」と言わねばなりませんでした。
さらには劇場を海軍に接収され、勤労奉仕で練習もできない中、華やかな舞台への憧れだけが募ったのです。

やがて大阪は空襲に見舞われ、何も残らないと言われたほど焼き尽くされます。
当然ながら舞台どころではありません。
劇場からは灯りが消え、劇団員たちも疎開して各地に散らばってゆくのでした。

このころ戦火に巻き込まれて、命を散らした団員たちもいました。

東京の実家に帰省していた清美好子は、東京大空襲で死亡。
結婚するために退団し、三重県津市に嫁いだ糸井しだれは、空襲により爆弾が直撃し、26才の若さで亡くなります。

退団後に女優として活躍していた園井恵子は、移動劇団「桜隊」に参加していました。
彼女を含めた「桜隊」のメンバーは、1945年(昭和20)8月6日の原子爆弾投下に遭遇。
あの地獄の瞬間を超えて生き延び、終戦を迎えた彼女は「これでまたお芝居ができる!」と目を輝かせ、喜びました。

広島原爆の爆心地で撮影された一枚/Wikipediaより引用

 

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髪の毛が抜け始めて発熱 全身が痒みに襲われる

しかし、です。
その数日後、彼女の体を異変が襲います。

髪の毛が抜け始めて発熱。
かゆみに襲われ全身をかきむしりだしました。

やがて皮膚には黒い点が出て、腫瘍が出来て破裂して、血膿があふれ……。激しく下血し、意識は濁り、息づかいがせわしくなり、幻覚すら見るようになります。
彼女の体は、原爆症に蝕ばまれておりました。

もうろうとした意識の中、彼女は最期にこうつぶやきました。
「私は芝居がしたいの……」
32才の生涯でした。

原爆で命を落とした元宝塚の園井恵子/Wikipediaより引用

現役生の中には宝塚に戻れない人たちもいました。
焼け出されて戻る余裕がなかったのか。あるいは戦火に散ったのか。

戦争の影響を最も受けた第三十三期生120名のうち、初舞台を踏めたのはわずか59名でした。

 

1946年 米軍に接収されていた劇場が戻る

全国に散らばり、苦難の時を過ごしていた宝塚の団員たち。

終戦後、全国から生徒たちが戻り始めました。

戦争が終わったとはいえ、まだ日本全国が焼け跡になっていて、食べ物もない時期です。

そんな中でありながら、終戦後から一ヶ月も立たない九月には有志によりレッスンが開始されます。寄宿舎はすし詰め、勤労奉仕ばかりしていて練習するのも久々という大変な状況でも、踊り歌える喜びはかけがえのないものでした。

衣装もメイク道具も不足しています。
替えなんてないから、洗ったものを干してすぐさま使う状態です。

盗難事件も発生しました。
粗悪なメイクがはがれおち、カツラがずりおちるなんてこともしょっちゅう起こりました。

もっと深刻な問題もあります。
栄養不足であるにも関わらず厳しいレッスンを受けたため、肺結核に罹りそのまま倒れる劇団員もいたのです。
戦争は終わってもまだその影響は残り続けけたのですね。

そして1946年(昭和21)。
海軍のあとはアメリカ軍に接収されていた宝塚劇場が、ついに戻りました。

現在の宝塚歌劇団(宝塚音楽学校)・武庫川の畔に建つ

 

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「戦争はもう終わったんや! 宝塚がまた見られる!」

4月、宝塚公演再開の報を受け、ファンたちは切符を手に入れるために奔走します。

綺羅びやかで浮世離れの世界。
戦時中あきらめていた夢が、また見られるのです。

「戦争はもう終わったんや! 宝塚がまた見られる!」

チフスの流行で公演の延期はあったものの、22日についに開幕します。
演目は『カルメン』と『春のをどり』。
三階建ての大劇場を埋め尽くした観客の前で、この日舞台を踏んだ総勢56名がかけ声とともにラインダンスを踊りました。

その日の観客席には、小林一三もいました。
元大臣として戦後公職追放されていた彼は、いきいきと踊る乙女たちの姿を見て、生気を取り戻したのです。

彼女らは、再びこの舞台を踏める日を夢見て辛いばかりの戦火をかいくぐってきました。

私も負けてはいられない……。
かくして関西財界人のレジェンドたる小林一三も決意を新たにし、戦後復興の道を歩むことになるのでした。

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文:小檜山青




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【参考文献】

 





注目! 島津斉興
ホントは藩政改革の成功者


1位 日米修好通商条約の真実
タフネゴシエーター岩瀬忠震


2位 本当は世捨て人だった!?
井伊直弼の生涯


3位 五代友厚(才助)
薩摩の異端児にして大阪の救世主


4位! 桜田門外の変
薩摩から見るのが面白い


5位 藤原道長
出世の見込みなかった62年の生涯


6位 大政奉還から戊辰戦争
までのドタバタを分かりやすく!


7位 月照
西郷とBL?的な清水寺住職


8位 松平慶永(松平春嶽)
調整、調整、また調整!?


9位 金栗四三いだてんモデル
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10位 勝海舟
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