連歌

明智光秀/wikipediaより引用

文化・芸術

光秀も藤孝も幸村もハマっていた~連歌が戦国武将に愛された理由とは

弓と馬、槍と刀の戦国武将。

その生涯は、戦に明け暮れるワイルドな日常かのようにも思えますが、実際はそれだけでもありません。

大名家に生まれたとなれば、教養も大切です。

彼らは美術品や漢籍を集め、読書に励み、感性や教養を磨いていました。戦の合間には政務だけではなく、そういった趣味を楽しむことも当然あったわけです。

そんな彼らの文化的な集いとして、映像化されやすいのが茶の湯でしょう。

中でも政治力が強い千利休は、大河ドラマにもしばしば登場。

一方で、茶の湯と勝るとも劣らないほどの人気があったにも関わらず、ほとんど取り上げられないものもあります。

連歌」です。

連歌が注目される場面といえば、明智光秀が【本能寺の変】直前に意味深な句を詠む「愛宕百韻(あたごひゃくいん)」くらいでしょうか。

今回はそんな連歌について、少し深掘りしてみたいと思います。

※以下は愛宕百韻の関連記事となります

愛宕百韻(愛宕山連歌会)
光秀が本能寺の前に詠んだ愛宕百韻「ときは今 あめが下知る 五月かな」の真意は?

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五七五七七を上・下に分け複数人で♪

連歌とは、五七五七七の短歌を上の句・下の句で分けて複数人で詠んでみよう、というところから始まっています。

もとは「短連歌」という、上の句と下の句を二人で分けて詠むスタイルでした。

それが時代が降るにつれ、複数人が集まり、規定数の句を集めるゲーム「長連歌」へと変化。「長連歌」で最も一般的なのが、百句を集める「百韻」です。

もちろんルールもありまして、前の句にあわせたものを詠まねばなりません。

昔「マジカルバナナ」という連想言葉ゲームがあったのをご存知でしょうか?

「バナナといったら滑る♪ 滑るといったらスキー♪」というように、前の人が言った単語を受けて、そこから連想する単語をつなげていく遊びです。

連歌も「マジカルバナナ」のように、「梅といったら春 春といったら霞」という感じで、連想するテーマの句を続けていかねばなりません。

このとき全然関係ない句をつけるとへたくそだと思われ、かといって同じパターンで句をつなぐと「もうちょっとひねりが欲しいかな」と思われてしまうという、なかなか面白くも難しいものです。

 


『源氏物語』のような古典知識を織り込めばさらによし

連歌作りのポイントとしましては、

・テーマにあった句

・次の人に繋ぎやすい句

そして情景をまざまざと思い起こさせ詠むことでしょうか。

TBSの人気番組プレバトで、俳句の夏井先生が「映像を切り取る」というようなことを仰られてますように、連歌も、聞き手が想像しやすい場面が有効となるようです。

これに加えて『源氏物語』のような古典文学知識を織り込めばさらによし。特定の語句の使用回数上限が設けられる場合もありました。

単体で優れたものを詠むだけではなく、場の空気をも詠まねばならない、それが連歌のルール。

うーん、なかなか大変そうですね。

このような句を即興で思いつくのはそう簡単なことではありません。連歌は句を思いついた人から発表しますので、詠む句の数にも偏りが出てきます。

参加人数はだいたい十人程度が一般的であったようです。

当意即妙に句を詠む頭の回転の速さ。

コミュニケーション能力。

古典文学の教養。情

景や心情を切り取る文才。

そうした複合的な要素が試されるのです。

 


歌でストレスを発散する武士たち

鎌倉時代のエッセー『徒然草』第89段で「猫股にという妖怪に怯える法師が、じゃれついてきた飼い犬に驚いて小川に転落する様子」がユーモラスに描かれています。

この法師が何故、犬と猫股を勘違いしたのか? と申しますと、夜更けまで連歌をしていたからなのでした。

連歌というのは百句も詠むわけですから、そりゃあ時間もかかります。

途中で休憩を挟み、食事も出ます。

オールナイト連歌を行う場合もあり、楽しさのあまり寝る間も惜しんでしまう盛り上がりが伝わって来ます。昭和のサラリーマンが徹夜麻雀に勤しんだのと似てますかね。

前述の『徒然草』で、小川に落ちた法師は連歌の景品を懐に入れていたのに、水に落として台無しにしてしまいました。

このように、連歌会では優劣に応じて景品が出ることもありました。これまた現在に例えればゴルフコンペのようですね。

庶民は花見をしながらワイワイと気軽に連歌を楽しむ一方、高貴な人が集う連歌会はもっと格式が高いものでした。

豊かなインスピレーションがわいてきそうな立派な会場で、かぐわしい香を焚きしめて行うのが定番。まさに一大イベントです。

政務や合戦に明け暮れる武将たちにとって、リラックスでき、楽しめるものでした。

なんせ『古今和歌集』の昔から、

猛き武人(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり

と言われて来たぐらいですから。

弓馬の道を生きる武士ならば、ストレスを発散するために歌を詠む――そういう効能があったのです。

もっともこれも人それぞれで、文芸そのものは親しんではいるものの、自分から詠むのはあまり好きではない、教養としてこなすものの、積極的に行うわけではない、徳川家康のような武将もいたようですね。

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あるいは織田信長も、若かりし頃は文化芸術の教養をほったらかしにして武芸を重視したあまり、それが原因で「うつけ者」と称されたなんて話もあります。

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今川氏真にいたっては歌や蹴鞠にハマる一方、同家を滅亡させてしまった、なんて後世につっこまれたり。

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こうしたエピソードからも、武士の世界と教養の関係性が垣間見えて面白いですね。

ただし、連歌は単なる遊びの枠に収まらないものでもありました。というのも……。

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