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織田家 麒麟がくる特集 週刊武春

自害した信長の「爺」平手政秀~知られざる生涯62年を振り返る

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漫画にせよ、ドラマにせよ。
若き日の信長を描くときに欠かせないシーンがこれ。

信長お坊ちゃまが「うつけ」と呼ばれるのは忍びなく、このままでは織田家の先も思いやられます。
爺が自害して果てますゆえ、これより先は、なにとぞ当主としての自覚をおもちくだされ――。

そうです。
二番家老・平手政秀が自害するシーンです。

父・織田信秀の葬儀で抹香を投げつけたり、領内を半裸の騎乗姿で馬を駆けさせたり、何かと暴れん坊イメージの先行する信長に対し、自らの諫死でもって行動を改めさせようとする。

その姿、まさしく忠臣と呼ぶに相応しいですが、逆にいえば、それ以外のことで政秀が話題にのぼることはほとんどありません。

一体彼はどのような人物だったのか。
本稿では、生まれや人柄、あるいは他の功績なども見て参ります。

 

清和源氏に繋がる出自?

例によって、政秀の出自についてはよくわかっていません。

一説には、清和源氏の新田氏から枝分かれした世良田せらた or 世良田せらだ氏の遠い子孫だといいます。
ややこしい話ですので、系図でもってザックリまとめておきましょう。

【清和天皇】

(略)

源義家

源義国

新田義重

新田義季

世良田頼氏

(略)

世良田有親

平手義英

(略)

平手政秀

これが本当ならば源頼朝武田信玄などともかなり遠い親戚になりますね。

ただし、モヤッとするのが、世良田有親が世良田氏のどの系統なのかハッキリしてないところ。

政秀の出自については
「清和源氏の末裔……かもしれない」
程度で考えておくのがいいでしょうね。

ちなみに、徳川家康も世良田有親の末裔を名乗っています。
こちらはそこそこ有名な話ですね。

家康の血筋については、以下の記事に詳しくありますのでどうぞご覧ください。

徳川家康は3度の死地を乗り越え天下人に!75年の生涯をスッキリ解説・年表付き

 

志賀城の城主だった

生い立ちが不明なら、若い頃も不明な政秀。
少なくとも、古くから尾張にある裕福な豪族だったようです。

政秀が和歌や茶道に通じていたとされるのも、平手家が一定以上の財産を持っていたからでしょう。
なにせ志賀城(名古屋市北区)の城主でもありました。

志賀城は、名古屋市中心部にある名古屋城(当時は那古屋城)から北へ約2~3kmの位置にあります。

「あっ、信長さんが生まれた那古屋城から近いんだね!」
と思われるかもしれませんが、現在、信長の生誕地は、志賀城から西へ約16kmにある勝幡城しょばたじょうが確実視されております。

念のため地図で確認しておきましょう。

※左の黄色が勝幡城・赤が志賀城・紫が那古屋城

 

公家の饗応役もこなしており

明応元年(1492年)生まれの政秀が、史料に表れるようになるのは天文二年(1533年)頃から。

織田信秀が、主筋である織田達勝おだたつかつや、小田井城の織田藤左衛門と争っており、その講和のため公家の飛鳥井雅綱あすかいまさつなを招いたことがありました。

このとき公家・山科言継やましなときつぐも同行しており、彼の日記『言継卿記ときつぐきょうき』に政秀のことが少し書かれています。

なんでも政秀が、飛鳥井と言継の二人を朝食に招いたらしく、
「屋敷は立派だし、平手殿のもてなしぶりもすばらしい」
と評価しているのです。

応仁の乱以降、京都が荒れ放題だったことを考えると、地方の武士や富裕層のほうがよほどいい暮らしをしていたのでしょう。
当時の公家の悲哀が窺える一節でもあります。

実際、言継も、自分で医学をかじって近所の庶民を診察し、薬を処方するなどの内職をしていた糊口を凌いでいたほどでした。

なお『言継卿記』は、今後も織田弾正忠家(信秀や信長の家)関連の話でよく出てきますので、織田ファンの方は覚えて置くと良いかもしれません。

 

朝廷への使いや斎藤家との縁談もまとめ

その後、信長が生まれてからの政秀は、傅役もりやく(跡継ぎを育てる人)兼二番家老となり、信長の元服や初陣にも付き従っています。

それだけではありません。
並行して、織田家の重要な仕事も請け負っておりました。

例えば、信秀が朝廷へ内裏の修繕費用を献上したときや、清須織田氏と講和をするときなど、主に外交で「ここ一番」というときに仕事を任されていたのです。
有名なところだと、斎藤道三の娘・濃姫を信長の正室に貰い受けるときの交渉も、政秀が担当しておりました。

信秀・信長にとって、政秀はまさに得難い家臣だったといえるでしょう。

なんせ『信長公記』でも
「政秀は風雅で心遣いができる人」
と評されています。

日頃は温厚な知識人という感じの人だったと思われます。

そういう人が若き日の信長の家老となると、気苦労が絶えなかっただろう……というのは、なんとなく想像がつきますよね。

これまた信長公記に書かれていますが、いつの頃からか、政秀の長男・五郎右衛門と信長が不和になったために、さらに胃痛の種が増えてしまいました。

 

息子と信長の不和から板挟みになり……

不和の原因は、五郎右衛門が持っていた名馬でした。

名馬マニアとして知られる信長がこれを所望したところから悲劇が始まります。

五郎右衛門が
「私は武士ですので、馬がなければ働けません。お許しください」
とキッパリ断ったのです。

平手家は決して馬を買い換えられないほどの家ではありませんから、その馬がよほど優れていたのでしょう。
信長が直接欲しがるくらいですしね。

これをきっかけに五郎右衛門と信長の関係が悪化し、政秀は板挟み状態になったとされています。

また、信秀の葬儀での信長の言動があまりにも常軌を逸していたこと、その後も行状が改まらないことなども、政秀を悩ませました。

そしてついに、天文二十二年閏1月13日(1553年2月25日)、自ら命を絶ってしまったのです。
信秀が亡くなってから、もうすぐ一年という頃合いでした。

 

「政秀のおかげだ!  馬鹿にするな!」

信長は政秀の死をいたく悲しみました。

そして、その名を冠した「政秀寺せいしゅうじ」を春日井郡小木村(小牧市)に建て、菩提を弔います。
住職は、信長の師の一人であり、政秀に後事を託された沢彦宗恩でした。

真偽の程は不明ながら、その後もこんなエピソードが残っています。

信長は鷹狩に行くたびに、政秀への供え物として肉を投げ上げた

後年、他の家臣が

『殿がこんなに偉大になったのに、平手殿は自刃するなんて早まったことをしましたね』

と政秀を揶揄すると、信長が激怒。

『俺がここまで来れたのは政秀のおかげだ! 秀を馬鹿にするな!』

残念ながら、このエピソードが本物かどうかは不明です。

しかし、信長が政秀を懐かしむような言動をしていたからこそ、こういった話が残ったのでしょう。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『織田信長の家臣団―派閥と人間関係 (中公新書)』(→amazon link
平手政秀/wikipedia
世良田氏/wikipedia
平手氏/wikipedia

 



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