織田信長

織田信長/wikipediaより引用

織田家

織田信長の生涯|生誕から本能寺まで戦い続けた49年の史実を振り返る

2025/06/01

天正10年(1582年)6月2日は本能寺の変が起きた日。

このとき死に追い込まれた織田信長は一体どんな人物だったのか?

史実ではいかなる記録が残されているのか?

かつてのフィクション作品では魔王のごとく描かれることも多かったが、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』がそうであったように、その評価は変わりつつある。

例えば那古屋城(なごやじょう)生まれとされていたのが、現在では勝幡城(しょばたじょう)だと分析されたり。

「鉄砲の三段撃ち」など存在していないとされたり。

あるいは朝廷に対しても「普通に保護してるじゃん……」という一面がクローズアップされたり。

今まで描かれがちだった【とにかく怖い信長像一辺倒】ではなくなっきている。

では、信長の生涯とはいかなるものだったのか?

まず5段階に分けてザックリまとめるとこうなる。

①尾張時代
1552-1560年

②美濃へ進出
1561年-1567年

③上洛と包囲網
1568年-1580年

④天下統一事業
1573年-1582年

⑤本能寺の変
1582年

西暦で表示させていただくと、まず1534年に生まれ、家督を継いだのが1552年。

その頃は身内のゴタゴタなどがあって尾張一国すらまとめられていない状況だったが、1560年【桶狭間の戦い】で今川義元を破ると、隣国・美濃の攻略を開始。

京都への上洛をキッカケに全国の敵と戦い続ける――戦(いくさ)だらけの人生だった。

まさに波乱に富んだ天下人・織田信長49年の生涯を振り返ってみよう。

織田信長/wikipediaより引用

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織田信長 1534年に勝幡城で生誕

織田信長は1534年(天文3年)5月28日、尾張(現在の愛知県西部)で生を受けた。

かつては11日(あるいは12日)とされたが、昨今の研究から28日が有望という見方がでている(詳細は記事末に)。

父は尾張守護代家に仕える織田信秀。

織田信秀/wikipediaより引用

清須三奉行の一人で、元々の身分はそう高い方ではない。

母は土田御前(どたごぜん・土田政久の娘)。

彼女は謎多き人物である。

信長が生まれた場所は、かつて那古野城(なごやじょう・現名古屋城内)とされてきたが、当時は今川家に押さえられていたことが近年の書状解析で明らかになり、勝幡城(しょばたじょう・愛西市)での出生が確実視されている。

【城】
紫色=勝幡城
黄色=那古屋城
赤色=稲葉山城(後の岐阜城)

織田信長は次男で、幼名は吉法師だった。

正妻から生まれた最初の息子であり、生誕から嫡男として育てられている。

側室より正室の子が優先されるのは当時としては珍しいことではなく、実際、1546年に父の居城・古渡城(ふるわたりじょう・名古屋市)で元服し、那古野城主となると、1552年、父・信秀の死(流行病)によって同家の家督をスンナリ継いでいる。

相続自体には何も障壁がなかった。

 


教育係・政秀と弟・信勝(信行)の死

その後、信長は「守護の斯波氏を守る」との大義名分で、尾張の中心だった清須城を事実上占拠。しばらくの間は、身内との権力争いに忙殺される。

実はこのころの織田家は、尾張一国をまとめることもできないでいたのだ。

それは当時の織田信長が“うつけ者”として、周囲から軽んじられていたことも無関係ではないだろう。

例えば、父・信秀の葬儀で焼香のとき、抹香(まっこう)を仏前へ投げつけたのはあまりに有名な話で、信長本人を礼賛する『信長公記』(著・太田牛一)に記されている。

そしてその影響で1553年、教育係の平手政秀が諫死(かんし・死でもってたしなめる)したというのもよく知られた話だ。

では、若いころの織田信長は手の付けられない馬鹿者・乱暴者であったのか?

若き日の織田信長/絵・富永商太

というと、実際はそれほどでもない。

当時、上級武家の子息たちなら蹴鞠などお上品な作法を行儀よくお勉強をしなさいとされていた規範にそぐわなかっただけであり、信長が好んだ馬の教練などは、常に生死の問われる戦国武将にとっては、むしろ自然だったとも考えられる。

現代の漫画やドラマなどでは、魔王のごとく恐ろしいキャラクターで描かれることの多い織田信長であるが、やはり後の史実を含めてみても実はそういった印象は薄い。

平手政秀の死に際してはこれを大いに嘆き悲しみ、愛知県小牧市に政秀寺(せいしゅうじ)を建立、臨済宗の沢彦宗恩(たくげんそうおん)にその霊を弔わせた。

ちなみに沢彦もまた織田信長の教育係であった。

1557年には弟の織田信勝(織田信行)を病気と称して呼び出し、謀殺しているが、これとて単に「気に入らなかった」というような感情的理由ではない。

信勝はその前にも兄・織田信長を排斥しようとして失敗。そのときは両者の実母・土田御前に諭され処分は下されることがなかっただけで、さすがに2度目の裏切りでは殺害も致し方なかった処置だった。

実際、かつて信勝派であった柴田勝家は織田信長のもとで出世している。

なお、その前年(1556年)には、妻・帰蝶(濃姫)の父である斎藤道三が「長良川の戦い」で息子の斎藤義龍に討たれ、その際、織田信長が救援に向かっていたことは有名な話だ。

斎藤道三/wikipediaより引用

実弟の裏切りはその直後のことだっただけに、後ろ盾を失った信長が織田家を引き締めるためにも、果断な処置が求められたことは想像に難くない。

ただ単に、殺害した――とクローズアップするのは、やはりバランスを欠いた考え方であろう。

 

桶狭間

最近の研究では、父の信秀は三河国西部(愛知県東部)までを支配していたことがうかがえる。

しかし、信秀の急死で織田家内が内乱状態となり、織田信長は三河どころか尾張の維持すら危うくなっていた。

かように混沌としている最中、戦国時代、最大の「番狂わせ」が起きる。

1560年5月19日、桶狭間の戦いだ。

従来、この合戦は嵐の最中、少数精鋭の織田軍が奇襲で成功させた――と考えられてきた。

上洛(京都へ上ろうとすること)中だった今川の大軍に気づかれることなく、大きく迂回し、桶狭間で休息していた義元の本陣へ攻め込み、電撃的な攻撃で首をうち取った勝利とされてきたのだ。

3~4万という兵数の今川軍に対し、2~5千の織田軍では、正面からぶつかっても太刀打ち出来るワケがない。ならば奇襲と考えた方が自然だと思われた。

が、この奇襲説は戦前の旧参謀本部が「日本戦史 桶狭間役」によってお墨付きを与えたものであり、最近は疑問符が投げかけられている。

そもそも、今川義元は上洛しようとしていたのではない。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

尾張国内に進出した今川方の二つの城(大高城と鳴海城)が織田方に包囲されたため、その救援(後詰め)にやってきたのだ。

要は、国境エリアにおける、単なる城の奪い合いである。

もしも今川が上洛を進めるのであれば、美濃の斎藤氏や近江の六角氏など、途中の武将たちに許可を得ねば不可能である。

しかし、今のところ今川氏からの書状(通過を求める連絡)は確認できていない。

この時点で今川が、織田、斎藤、六角といくつもの戦国武将を撃破し続けて京都に上がる可能性は極めて小さいし、そもそもその意味もないだろう。

その他、桶狭間の戦いについては、複数の説が唱えられているが、いずれも決定的とは言い切れず、未だ定まっていない。

そんな最中、城攻めの観点から注目されているのが城郭考古学者・千田嘉博氏の説だ。

千田氏が『信長の城』(→amazon)で提示したのは正面奇襲説。

三行で説明すると。

①今川軍は尾根の上にはおらず山の裏側(南側)にいた。

②今川と織田はそれぞれが見えない状態だった。

③現地に詳しい織田信長は裏側の地形を読み切って、おけはざま山(大高丘陵)をすり抜けて奇襲をかけた

これまでの諸説は『信長公記』という唯一のテキストを解釈に解釈を加える形で行われてきた。

が、千田説は城や砦の考古学や歴史地理の研究成果も合わせて3次元な論証を行っており、桶狭間の戦いをめぐる論争は今、次世代の段階に入ったといえる。

いずれにせよこの戦いによって見える【信長像】が大きく二つある。

絵・富永商太

一つ。

織田信長は当時の総大将としては珍しく自らが前に出るタイプだったことだ。

だからこそ少ない部下を率いて今川軍へ攻めこむことができたのであり、最大の勝因にもなった(後に石山本願寺との対戦中にも自ら寡兵で救援にかけつけるなどの記録も残っている)。

もう一つ。

自分の能力を過信しない謙虚さを持ち合わせていることだ。

織田信長はこの大勝利の理由に「天候の急変」と「自分の判断の読み違え(今川軍は前哨戦で疲れ果てていると思っていたが無傷の義元本陣とぶつかった)」があったことを認め、その後、奇襲作戦は使っていない。

自分が前には出る。

しかし無謀な勝負はしない。

今川軍を打ち破った成功体験を、あっさり捨てられることもまた、特筆した才能といえよう。まさに情熱と冷徹さを持ち合わせているのである。

かくして日本史上に燦然と輝く快挙を成し遂げた織田信長ではあったが、前述したとおり、このとき尾張一国も完全には統治できていない状況だった。

 

小牧山城と岐阜城

家督を継いでから、その後、天下に名前を鳴り響かせるまで、織田信長は頻繁に本拠地を変えた。

実は、本拠の移転は、他の大名にはあまりなかったことだ。

たとえば武田信玄は隣国・信濃(長野県)を支配するため、勢力拡大の度に前線の城を大いに利用したが、甲斐(山梨県)の躑躅ヶ崎館(甲府市)から本拠地自体を移動したことはない。

関東管領となり、同地域の名目的支配権を獲得したライバルの上杉謙信も、本拠地を南へ移せば豪雪の障害も減り、関東への侵攻は格段にラクになったハズであるのに、春日山城(新潟県)から動いたことはない(謙信は上杉家臣団のまとまりがなかったという要因もあるが)。

戦略に応じて本拠地を変える――。

過去の成功を一考だにしない――。

いずれも織田信長ならではの偉大な才能の一つなのであろう。

その取っ掛かりとして本人に大きな影響を与えたと最近考えられているのが、1563年(永禄6)に清須城から移転した【小牧山城】(愛知県小牧市)である。

 

小牧山城

普通、織田信長の本拠地移転といえば、岐阜城が真っ先に挙げられがちだ。

あまり知られていない小牧山城がなぜ? と思われるかもしれないので、同城の特徴を記しておくと……。

①30歳の織田信長が築いた最初の城郭

②最大三段の石垣を備えた城で、後の安土城にも影響を与えた可能性

③わずか4年間しか使われなかったために文書の記録がほとんど残っていない

平成になって行われた発掘調査で、これまで「無い」とみられていた信長期の石垣が山頂部で発見された。

本格的な都市計画に基づく城下町跡も見つかり、織田信長が初めて自らの手で作った城が単なる中継ぎの砦(城)ではなく、城下町を備えた本格的かつ尾張では存在しなかった石垣の城であることが判明。

小牧山城に対する注目度は高まっている(なお、前述の千田教授は発掘以前から地籍図の読み込みによって城下町の存在を指摘していた)。

小牧山城本丸復元図(絵・富永商太)

実際、この城の新造に合わせて、これまで従っていなかった一族の支配地・尾張北部も手に入れ、さらにそれをきっかけに美濃国(岐阜県)へ攻め入ったのである。

極めつけは「麒麟(きりん)のサイン(花押)」であろう。

かつては岐阜城において、「天下統一の意思を示す」ものとして、「天下布武」の表明と共に、中国の皇帝が使う幻獣「麒麟」と花押の2点セットが初めて使われたとされていたが、そのうち麒麟のサインは小牧時代から使い始めていたことも分かった。

このころ美濃は、義父の斎藤道三の代から息子の斎藤義龍を経て、孫の斎藤龍興が当主となっていた。

道三時代は友好だった関係も、義龍が軍事クーデターを起こして当主になってからは反織田に切り替わっていて、織田方の犬山城など尾張北方を侵食。

清須から小牧山城への移転は、これに対応する攻守の政策決断でもあった。

しかし、その最中に義龍が急死。

幼い龍興では斎藤家中はまとまらず、織田信長は徹底的に調略を駆使して稲葉一鉄ら「美濃三人衆」を切り崩し、1567年、ついに織田信長は斎藤氏の稲葉山城を陥落する。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/Wikipediaより引用

この城と城下町を「岐阜」と改名して本拠地を移転したのであった。

なお、美濃の調略工作で活躍したのが丹羽長秀や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)だったとされている。

※ 岐阜という名前は織田信長と僧・澤彦宗恩(たくげんそうおん)が初めて命名した――と考えられがちだが、実際は以前から存在していた。

岐蘇(木曽)川の「岐」ならびに、土岐市の「岐」という意味。

例えば瑞龍寺の「土岐重頼画像」に「岐阜」という文字が記されている(1499年時点)。

 


第一次信長包囲網

岐阜へ本拠を移動させた織田信長は、まず京都への道筋を確保すべく動いた。

自らが奉じた足利15代将軍・義昭の護衛(という名目)のためには、岐阜~近江~京都ルートを押さえることが肝要。

その途上を治めていた浅井長政に、絶世の美女と謳われた妹・お市を嫁がせる。

お市の方/wikipediaより引用

むろんこれだけでは完璧ではなく、南近江には織田信長に対抗する諸勢力がおり、彼らを駆逐せねばならなかった。そのうちの一つ・六角氏が最初に「楽市楽座」を行ったとする記録が残っているのが興味深い。

いずれにせよ南近江の国衆や小大名を各個撃破しながら京都への道筋を押さえた織田信長は、この先、運命を大きく変える判断ミスをしてしまう。

越前(福井県)朝倉氏へ攻め込み、妹婿であった浅井長政ならびに浅井家を敵に回してしまったのだ。

なぜ浅井長政は織田信長を裏切ったのか?

そこで挙げられるのが父・久政や家臣団の強い意向であり、実際、浅井氏は周辺の北近江ならびに琵琶湖権益を保持する国人衆との連合勢力であった。

ゆえに長政自身が強権を発動することはかなわず、従来通り朝倉との関係を維持することになびいて、織田信長を裏切ってしまったようだ。

ただ……いざ裏切った後の浅井・朝倉の行動はグダグダだった。

現代では凡将として知られる朝倉義景の生ぬるい状況判断や、その逆に激しく迅速な織田信長の逃亡劇によって、越前から京都まで無事に帰還。

浅井・朝倉の猛追をしんがり軍で受け持った羽柴秀吉や明智光秀は、最後まで持ちこたえ、彼らもまた無事に逃げ戻る。

この一連の撤退戦が金ヶ崎の退き口である。

そして京都を経て岐阜城へ戻った織田信長はすぐさま浅井討伐軍を編成した。

織田信長にとって当面の敵は浅井となった。

上記の地図をご覧のように、織田信長の岐阜城(岐阜市)から小谷城(長浜市湖北町)までは現代の距離で約56km(徒歩で11~12時間・グーグルマップより)。

山がちな土地であるため南側の大垣~関ヶ原ルートを迂回せねばならないが、それでも2日あれば十分に行軍できる距離である。馬なら1日でいけるだろう。

むろん、そんな状況は浅井家でも重々承知しており、いきなり本拠地を織田信長に晒すわけもなく、織田軍の侵攻に備えて小谷城の南方に支城を配置、そしてこの地の攻防から、これまた後世に知られる合戦が勃発した。

【姉川の戦い】である。

1570年6月、織田・徳川連合軍(1.3~4万)と浅井・朝倉連合軍(1.3~3万)がぶつかった。

浅井長政と朝倉義景/wikipediaより引用

発端は横山城の包囲戦から始まった野戦であり、当初、浅井・朝倉が優勢だったものが徳川の踏ん張りにより逆転、最終的に織田方が横山城奪取に成功したというのが有力説として伝わっている。

徳川の武力を世に誇るため後世に書き換えられたという説もあるが、いずれにせよ小谷城攻略への足がかりを作った織田信長。

すぐさま浅井・朝倉を立て続けに反撃……とはならなかった。この辺りから「第一次信長包囲網」と呼ばれる苦境の時期に陥ったのだ。

まず8月、足利義昭に反対していた三好三人衆が摂津(大阪府)で挙兵。これに対処すべく出向いた織田軍の間隙をついて、全国での動員兵数が日本トップクラスの石山本願寺(のちの大坂城の場所に所在)の一向宗も立ち上がり、【野田城・福島城の戦い】へ発展する。

さらには浅井・朝倉・比叡山延暦寺が近江坂本へ軍を進めて織田軍は八方塞がりとなった。

次々に起こる脅威に対し、織田信長の周囲は生きた心地がしなかったであろう。

このとき浅井・朝倉・延暦寺の大軍に対して、寡兵で防御に徹したのが森蘭丸の実父・森可成(よしなり)であり、近江での【宇佐山城の戦い】と呼ばれる激戦で可成は命を落とすことになる。

森可成/wikipediaより引用

危機は、まだ終わりではない。

尾張のお隣・伊勢では本願寺の要請で長島一向一揆が起こり、織田信長の実弟・織田信興が自害へ追い込まれ、すわ織田軍は滅亡か――というところで繰り出したウルトラ技が「和睦」であった。

文字通り、織田軍を包囲していた浅井、朝倉、寺院勢力たちが休戦に応じたのである(1570年11月)。

織田軍を完全に囲んでおきながら、彼らはなぜそんな真似をしたのか。

そもそもは、織田信長が足利義昭を通じて、関白~天皇(正親町天皇)へと和睦を依頼し、それが首尾よくかなって勅命が発せられたのだった。

現代人からすればなんとも解せない外交という他ないが、ともかくこの一件で窮地を脱した織田軍はいったん帰国。

一方、囲みを解いた連合軍たちはすぐさま激しく後悔することになる。

その第一の標的が延暦寺であった。

 

第二次信長包囲網

一部では「魔王」(第六天魔王)とも称せられ、恐怖の対象で見られがちな織田信長。

その一つの要因となっているのが「比叡山焼き討ち(延暦寺焼き討ち)」であろう。

1571年2月、佐和山城の磯野員昌を調略した織田信長は、南近江への進出を再度可能にし、比叡山へ攻めこんだ。

前年に和睦をしたばかりの延暦寺としては憤懣やるかたない状況であろうが、一方で、同山では僧兵が跋扈し、遊女も行き交うなど、そこは宗教施設というよりもはや戦場(そして歓楽街)である。

絵本太閤記に描かれた比叡山焼き討ちの様子/wikipediaより引用

織田信長としても京への途上に敵対する「軍事施設」が構えているのだから戦略的にはとても捨て置けない状況だ。宗教施設ではなく軍の拠点であれば、攻め込むのは自然なことであった。

しかも、この事件、最近の研究から、今まで広く知られてきた残虐非道なものでもなかったという見方もある。

延暦寺の焼き討ち事件――従来は、僧兵・僧侶のみならず女子供まで含め数千人が殺されたことになっていた。

が、発掘調査で、焼失した木材や大規模な白骨が出ることもなく「数字は操作されたものでは?」という見立ても強いのだ。

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ただ、武力と権威を合わせ持つ有力寺院としての延暦寺が消えたことには間違いない。

目の上のたんこぶ的存在だった比叡山を攻略した織田信長の、次の目標は浅井・朝倉であった。岐阜から南近江を通り、琵琶湖水運も同時に活用して京へ進むルートは確保している。

しかし、背後には浅井の小谷城があり、周辺は常に緊張状態。いつまた寝首を掻かれそうになるかわからない。

徹底的に潰すべし――。

されど、絶体絶命の状況へ陥ったのは、またもや織田信長であった。

戦国最強と称される武田信玄がついに軍を進めてきたのである。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

 


立ちはだかる武田軍と信玄

このとき武田信玄は、巷で言われるように京への上洛を望んでいたのか?

確かに足利義昭や畿内の諸勢力たちは信玄を頼りとして、信長討伐を催促するなど、いわゆる第二次包囲網を敷いていた。

そして実際に信玄が立ち上がり、まずは徳川領内へ侵攻してきたことも事実である。

が、上洛までの道筋はさほどに簡単ではない。

桶狭間の戦いでも触れたように、あのときの今川軍は織田家との国境争いのために大軍を動員したと考えられている。

武田軍としても、徳川と織田を撃破すれば、その先に大きな敵はいないが、合戦には兵だけでなく武器も必要だし、さらには兵糧の調整も極めて重要となる(当時の兵は、実際に配られたかはさておき一日に7~10合の米が必要だったと計算されることも)。

戦国最強の武田家とて、その事情に変わりはない。

では何が狙いだったのか?

というと、やはり織田徳川、特に徳川家康に対する圧力だったのであろう。

今川義元の息子・今川氏真から駿河国(静岡県中央部)を強奪した武田信玄は、この戦いで今川と姻戚関係のある北条氏康を敵に回していた。

北条氏康/wikipediaより引用

氏康を敵に回したのは、共に今川領へ攻め込んだ徳川も同様だが、最終的に家康は氏真夫妻を助け、北条と勝手に和睦を結んでしまったのである。

信玄は、このことに激しい怒りを覚えた。

しかも駿河を制圧すれば、徳川の遠江(静岡県西部)とはモロに隣り合わせである。

そこへタイミング良く、織田信長と仲違いをした足利義昭からの求めがあり、信玄は、大義名分を得た上で西上作戦を展開するのであった。

むろん武田家とて、織田徳川だけを相手にすればよい状況でもなかったのは皆さんご存知かもしれない。

特に越後の上杉。

積年のライバルである上杉謙信が脅威となっていれば主力を西へ向けられはしない。

そして東には、甲相駿三国同盟が破綻し、信玄に対して怒りを抱いている相模の獅子こと北条氏康もいた……のであるが、北条家が三増峠の戦いで武田に手痛い敗戦を喰らい、それから間もなく氏康が死去して事情は一変、このとき武田と北条(北条氏政)は再び手を組んでいた。

北条が武田に付けば、今度は上杉にとっては関東に目を向けなければならない状況でもある。

つまり上杉としても武田にばかり関わってる余力もなく……。

三増峠の戦い石碑

信玄、ついに動く――。

 

三方ヶ原

精強な武田騎馬軍団の中でも最強と称される赤備え・山県昌景が先陣を切って三河へ向かい、信玄本隊は、昌景と並び称されるツワモノ・馬場信春等と共に遠江へ。

対する織田信長は、これまで表面上は友好的関係を保っていた武田信玄に対して激怒し、上杉へ挙兵を求めつつ、徳川に援軍を送る。

その数、佐久間信盛と平手汎秀(ひろひで・平手政秀の息子)の約3,000。

武田3~4万に対して、1~2万とされる徳川にとって、あまりにも心もとない兵力であった。畿内で包囲網を敷かれていた織田信長も、それ以上の兵は送れなかったのである。

ついに激突する武田と徳川。一言坂の戦い、二俣城の戦いと続き、三方ヶ原の戦いへ――。

三方ヶ原の戦い(歌川芳虎作)/wikipediaより引用

結果は、連敗そして惨敗であった。もちろん負けたのは織田徳川連合軍である。

特に三方ヶ原の戦いで武田軍は、家康のいる浜松城を素通りするかのように見せておきながら、背後から奇襲を仕掛けようとする徳川を万全の体制で待ち構え、完膚無きまでこれを叩きのめした。

まさに格が違う両者であった。

家康は、生涯に二度、合戦で命の危機にさらされたと言われる。

そのうちの一つがこの三方ヶ原の戦いで、もう一つが大坂夏の陣における真田幸村特攻だ(他に【神君伊賀越え】も同様の危機とされる)。

やっとのことで三方ヶ原から逃げ出し、その際、恐怖のあまり大便を漏らしたと後世に逸話が作られるほどの手痛い打撃を負い、浜松城へは這々の体で逃げ帰るという有り様。

後を追った山県昌景が警戒心を抱くことなく同城へ攻めかかっていれば、後の江戸時代は到来せずに未来は大きく変わっていただろう。

ライトアップされた浜松城――三方ヶ原の戦い後、徳川の帰還兵を受け入れるため灯りをつけて開城していたことが山県昌景の警戒心を煽り、結果、家康の命は助かったという伝説が

風雲急を告げたのは、三方ヶ原の戦いを経て、武田軍が東三河の野田城を攻略した後のこと。

連戦連勝で徳川を追い詰めていた武田軍は急に進路を変えると、そのまま本拠地・甲斐へ帰国してしまうのである。

そう、信玄の病は、もうどうにもならないところまで悪化していた。

そして元亀4年(1573年)4月、巨星墜つ――武田信玄の死は同家によって秘密が堅持されてはいたが、その不可解な撤退劇には織田信長のみならず、当の徳川家康が最も怪訝に思ったことであろう。

だからと言って甲斐信濃へ即座に攻め込むことは難しい状況だった。跡を継いだ武田勝頼は決して無能ではないと織田信長自身が評価しており、実際に領土を拡大している。

いずれにせよ一息ついた織田信長は同年7月、足利義昭と真正面から対峙することになる。

 


足利幕府の「滅亡」は「亡命政権」か

遡ること約半年前の元亀3年(1572年)10月、織田信長は足利義昭に対して『十七条の意見書』なるものを突きつけていた。

義昭の日頃の悪行を咎める内容であり、その例を挙げると

・朝廷に参内していない
・配下の者にケチな上、気に入らないと処罰する
・寺社に対して不親切
・訴訟の仕事は放ったらかし
・米を勝手に売りさばく

などなど、これが本当であれば「義昭、悪いのはあんたでっせ」という内容。

逆恨みのように激怒した足利義昭が武田信玄の上洛を促し、信長包囲網を敷きながら、武田軍の撤退(信玄の死)によって叶わぬものとなったのは前述の通りである。

等持院霊光殿に安置されている足利義昭坐像/wikipediaより

では高々と振り上げた拳を義昭はどうしたのか?

これまでの経緯から、何処かへ逃げ延びるかと思われた義昭。驚くことに織田信長への対抗姿勢を崩さなかった。

ときに「魔王」のように称される織田信長は、実はこのときですら義昭に対して和睦の提案を示していた。それを将軍自身が拒否したのである。

足利義昭が何を根拠に抵抗していたのかは不明だ。

共に信長包囲網に加わっていた浅井朝倉に期待していたのだろうか。それとも古き熱き源氏の血脈がそうさせたのか。あるいは将軍職に対し一定の配慮を続ける織田信長を、相変わらず甘く見ていたのだろうか。

今となってはその真意は不明ながら、義昭方は、今堅田・石山の戦い、二条城の戦いで織田方に連敗を喫し、ついに槇島城へと追い込まれる。

そして元亀4年(1573年)7月、おそらく寡兵(兵数は不明)で同城に立て籠もった足利義昭は、やっぱり足利義昭であった。

城を包囲→放火されると、アッサリ降伏してしまうのである。しかも嫡男を人質に差し出して。

この合戦を【槇島城の戦い】という。

このとき織田信長が下した判断は、当代一の権力を持つ戦国大名には考えられない、甘いものであった。

「将軍を殺さずに京からの追放だけで終わらせたワシをどう思うか? その判断は後世の者たちに委ねよう。(将軍への)怨みには恩で報いるのだ」(意訳)

映像作品やマンガで同シーンをあまり見かけないが、まるで信長公記の太田牛一によって後世に伝えられることを見越していたかのような言葉ではないか。

口元に微笑を浮かべながら、現代人の我々に質問を投げかける、そんな余興だったのかもしれない。織田信長には、やはり血が通っている――。

なお、槇島城の戦いをもって、約240年続いた室町幕府は滅びた――。

と、教科書等にはそう書かかれているが、足利将軍が地方へ逃亡するのはこれまでも頻繁にあったこと。

京都を去ったことで室町幕府が滅びたというのは結果論であり、この時点で生きていた戦国人たちはみな「元亀4年に室町幕府は滅亡した」とは思っていない(この“室町幕府は滅亡していない説”を唱えたのは藤田達生・三重大教授である)。

実際、義昭は亡命先の鞆(とも・広島県)で、毛利氏の庇護のもと、各地の大名に反信長の工作をしかけ続けるのであった。

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BUSHOO!JAPAN(五十嵐利休)

武将ジャパン編集長・管理人。 1998年に大学卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、累計4,000本以上の全記事の編集・監修を担当。月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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