豊臣秀吉は一代で異常な出世をした人だけに、親族衆や家臣の層が薄いことが弱点。
そのため、息子のような世代の人物を積極的に取り込もうとしています。
福島正則や加藤清正のような、いわゆる”子飼い”と呼ばれる人々はその代表例。
他に当てはまるのが、中国地方の大名・宇喜多秀家でしょう。
秀吉に気に入られ、その養女だった豪姫(実父は前田利家)を妻に与えられ、後に豊臣五大老に選ばれるほどの出世を果たした人物です。
ただし、その後は関ヶ原の戦いで敗北。
八丈島に流され、寂寥感ただよう最期を迎えた……と思いきや、明暦元年(1655年)11月20日に、享年84で亡くなるまで長生きをされているのですから、人の一生とはわからないものです。
イケメンとしても知られる宇喜多秀家とは一体どんな人物だったのか?

宇喜多秀家/wikipediaより引用
その生涯を追ってみましょう。
父の直家が浦上氏のもとで台頭
宇喜多秀家本人の事績を辿る前に、まずは宇喜多氏の前史について触れておきたいと思います。
宇喜多氏は、信長の出た織田弾正忠家と似たような形で地位を高めてきた家です。
当初、中国地方のうち播磨・備前・美作における最大勢力は赤松氏でした。
その赤松氏も【嘉吉の乱】や【応仁の乱】を経て勢力を弱め、代わりに台頭してきたのが浦上氏。播磨の浦上荘という場所の地頭から守護代へとなりました。
そこで仕えていたのが秀家の父である宇喜多直家です。

宇喜多直家/wikipediaより引用
直家は、永禄~元亀年間にかけて備前の武将たちを次々と滅ぼし、天正元年(1573年)に岡山城へ本拠を移動。
ちょうどそのころ織田信長が羽柴秀吉に中国攻略を命じたため、宇喜多氏も岐路に立たされました。
そこで浦上氏が織田氏につくと、直家は毛利氏になびいて反織田姿勢でいたのですが、天正七年(1579年)に宇喜多方の城が秀吉に攻略され、羽柴軍に帰順することになりました。
滅亡まで追い込まれなかったので宇喜多氏としてはOKな展開だったでしょう。
その後しばらくは羽柴軍の一員となり、毛利軍と戦っていたところ、直家が天正九年(1581年)2月に死亡。
『尻はす』という病による出血が原因で死に至ったようですが、直家が”暗殺の名人”だったことを考えると、畳の上で死ねるだけでも御の字だったような……。
※以下は直家死因の考察記事となります
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戦国一の謀殺王が迎えた最期は「尻はす死」それは一体どんな死に様だったのか
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ここからが秀家本人の話になります。
宇喜多秀家 10歳にして家督を継ぎ
父の急死により家督を継いだ――そんな話は武家でも公家でもよくあることです。
ただ、秀家の場合は少々勝手が違いました。
彼は元亀三年(1572年)生まれなので、この頃はまだ10歳の少年。
幼君+戦の最中となると、家臣団の状況によっては家が乗っ取られたり、滅んだりすることも珍しくありません。
幸い、叔父の宇喜多忠家や家老の戸川秀安・長船貞親・岡利勝などに二心がなかったため、同家はなんとか存続していました。
豊臣秀吉による、あの水攻め(備中高松城の戦い)でも、忠家が一万ほどの兵力で参戦しています。
そして天正十年(1582年)6月2日に本能寺の変が勃発。
直ちに毛利氏と和睦を結んだ秀吉が、中国大返しで京都へ戻り、明智光秀相手に【山崎の戦い】で完勝したのは有名な話ですね。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
このとき宇喜多家には、備中の東から備前・美作にまたがる50万石ほどの領地が与えられました。
毛利氏に対抗するため宇喜多家を使おう――そんな秀吉の狙いだったと思われます。
また、秀吉は幼い秀家を気に入ったらしく、猶子として迎え入れました。
なんせ”秀”の字を与えるで、秀吉の養女になっていた豪姫(前田利家の四女)を正室とさせ、夫婦ともに羽柴家の後見を受けるのです。
少々時系列が前後してしまいますが、秀家との結婚後も、秀吉が豪姫を可愛がっていたエピソードにも注目。
豪姫は秀家の子を複数人産みました。
ただ、産後に少々難がある体質だったようで、なかなか体調が戻りません。
その原因を「狐憑き」だと考えた秀吉は、狐狩りやら神楽の力で祓おうとしたと伝わります。
効果の程までは伝えられていませんが、豪姫は寛永十一年(1634年)まで生きていましたので、まぁ、悪くはなかったのかな、と。
話を秀家に戻しましょう。
文禄・慶長の役
秀吉から見た秀家は、まさに息子や孫のような世代であり、当時、実子がいなかったこともあって、かなりの厚遇でした。
官位の昇進も進み、時折起きる大きな戦でも、
天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦い
天正十三年(1585年)紀州征伐、四国征伐
天正十四年(1586年)九州征伐
天正十八年(1590年)小田原征伐
何かと目をかけられています。
むろん秀家も期待に応え、さらに後の朝鮮の役では二度とも渡海して戦いました。
秀吉はこの戦を「唐入り」と呼んでおり、朝鮮半島だけでなく中国本土の明まで進む予定だったとされています。
不安な点としましては、秀家がその壮大過ぎる計画に大賛成だったことでしょう。どうもお坊ちゃん特有の楽天的な一面があり、一抹の不安を隠しきれない。
と、思ったら第一回「文禄の役」では、秀家が総大将に任じられています。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用
現地では、朝鮮半島中部西側の京畿道を担当し、小早川隆景・黒田長政らと共に【碧蹄館の戦い】で勝利。
第二回「慶長の役」では、毛利秀元と共に監軍を務めました。
このときは南原城攻略の後、半島南部西側の全羅道・忠清道を制覇して、順天倭城の築城を行いました。
こうして数々の戦に参加するかたわら、秀家は本拠・岡山の整備にも心を配っています。
天正十八年から岡山城の大改築を行ったり、それまであった建物を整備したり、新たな本丸を造ったり。
さらには城下の道を整備して山陽道から直接通れるようにしました。
物と人の流れをスムーズにして、商工業の活発化を狙った――とは、かなり先見の明がある経済センスですが、同時に周辺の旭川の流れを変え、無理やり堀として使おうとしたため、城下で洪水が頻発してしまいます。
しかも、この問題、現代まで続いているから厄介でして。
・江戸時代
岡山藩と陽明学者の熊沢蕃山によって、放水路の掘削が行われる
・明治~昭和
浚渫(しゅんせつ)やダムの建設などで対策が取られる
・1990~2000年代
台風や大雨のたびに渇水・洪水が起き、住居や農林水産業の被害が深刻になる
近年の水不足やゲリラ豪雨による被害までは、さすがに秀家の責任ではない――とはいえ、笑えない話ですね。
太閤秀吉の死
当時は秀吉の下で天下統一事業が推し進められていた時期。
戦乱は徐々に落ち着きを取り戻し、合戦だけでなく領国経営の比重も高まりつつありました。
戦国大名の中でも秀家は若い世代であり、この新しい価値観にも順応していったのでしょう。
例えば新田開発で、石高の向上にも務めました。
児島湾に堤防を築いて干拓したことから、そこは今も「宇喜多堤」と呼ばれているとか。
しかし、ノンビリと領国経営している場合でなくなります。
慶長三年(1598年)8月。
豊臣秀吉が亡くなったのです。
三ヶ月ほど前、秀家は五大老に指名されておりましたが、それは幼い頃から見込んできた秀吉の遺言だったのでしょう。
「ワシが目をかけたように、今度は秀頼の成長を見守ってくれ」
秀家は当時まだ26歳の若さでしたので、秀頼の成長後も長く政権に留まってくれる可能性は高い。かなり信用されていたことが想像されます。
そして秀家にしても、その意図を十二分に理解していたでしょう。
問題は、思いもよらぬ方向からやってきました。
他ならぬ自身の家臣たちの間で【宇喜多騒動】と呼ばれる御家騒動が起きてしまうのです。
宇喜多騒動の始まり
事の発端は、家臣同士で起きた諍いでした。
慶長四年(1599年)、重臣だった戸川達安と岡貞綱らが、秀家の側近・中村次郎兵衛の処分を求めました。
達安と貞綱は直家の代から仕えていて、次郎兵衛は前田家から豪姫に付き従って来た人。
いかにも対立しやすい構図だったことに加え、豊臣秀吉の影響のせいか、秀家も豪奢を好むタイプであり、何かとうるさい達安らを遠ざけ始め、対立に拍車がかかりました。
豪奢とは、例えば何をしたのか?
・自分の趣味のために増税した
・鷹狩りのために鷹を100羽飼い、その世話係を300人召し抱えた
・鷹の餌にするため、領民に飼い犬を差し出せと言った
・豪姫が病気になったとき「仏に祈っても治らないから皆デウスに祈れ」とキリシタンへの改宗を強制した
こうした話には尾ひれがつきやすいものですが、なんだか傲慢であると同時に、リアリティある記述ですよね。
そして他に考えられる要因が「宗教間での対立」です。
秀家が比較的キリシタンに寛容だったのに対し、達安らは日蓮宗徒。
派閥全体を見渡すと、日蓮宗徒もキリシタンも双方入り混じっていたので、あくまで一要素の域を出ませんが、中には「ヤツが◯◯派なら、俺はその逆につく」なんてタイプもいたかもしれません。
騒動の結果、どうなったか?
身の危険を感じた次郎兵衛が、古巣の前田家へ逃亡。
達安・貞綱らは、大坂の宇喜多邸を占拠するという事態に発展します。
こうした動きに対し、秀家は「達安が何か企んでいるに違いない!」と決めつけ、暗殺を図りました。
なんだか急に謀殺王の父・直家を彷彿とさせますよね。秀家のイメージからかけ離れた行為ですが、父親が父親だけに、非常に生々しい。
しかも、いとこの宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安に味方したため、あわや一戦という事態へ発展しかけるのです。

宇喜多詮家(後に坂崎直盛)/wikipediaより引用
有力家臣達が次々に他家へ
当時、慶長四年(1599年)はまだ関ヶ原の前。
公的には「秀頼が成長するまで、五大老・五奉行らが協力して政治を行っていく」時期ですから、宇喜多家の騒動は無視できないものとなっていきます。
騒ぎの収集をつけるべく、まずは家康の重臣・榊原康政と、大谷吉継が調停に乗り出してきました。

榊原康政/wikipediaより引用
康政の側室が宇喜多家の家臣・花房氏と縁戚だったこと。
当時は伏見で留守居当番だったこと。
そういった理由から康政が乗り出してきたようで、花房氏の当主・正成も直家の代から仕えてきた人でした。
どちらかというと守旧派に近いながら他家の人間である榊原康政と、秀吉の信任厚く中立的な大谷吉継が間に入れば、感情的なヒートアップは避けられると考えられたのかもしれません。
しかし……。
この調停もまた長引き、康政の当番期間が終わっても決着が付かず、しまいには家康に叱られてしまいます。
「お前に調停を任せはしたが、自分の領地を放り出してまでやれとは言っていないぞ!」
やむなく康政は宇喜多騒動から手を引き、吉継一人で当たることとなりましたが、やはり無理があったようです。
人格者かつ優秀な武将であっても、いかんせん五大老のように大きな宇喜多家を部外者がまとめるには荷が重すぎました。
最終的に家康が処分を決めることとなります。
もはや仕方ない展開でしょう。
結果、戸川達安・岡貞綱など、大坂の宇喜多邸に立てこもった者たちは他の大名へ預けられるか、蟄居処分。
また、花房正成も宇喜多家を出奔し、それに続いて一門衆や他の家臣たちも宇喜多家を去っていくことに……。
宇喜多家の家臣団は、かなり力を削がれてしまうのです。
ちなみに、娘の豪姫が嫁いでおり、積極的に動いていてもおかしくない前田利家や、その子・前田利長による積極的関与はみられません。

前田利家/wikipediaより引用
宇喜多騒動が慶長四年のいつ頃だったのか。ハッキリしていませんが、利家は同年3月に亡くなっていて、動きたくても動けなかった可能性が高そうです。
利長も、既に家康の家臣である康政が動いていて、家康本人も関わったとなれば、横から口出しはできなかったことでしょう。
いずれにせよ有力な秀吉派の一つ・宇喜多家の勢力は大いに弱まったわけです。
得をしたのは誰か?というと……。
翌年の慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発しました。
関ヶ原の戦い
ずっと秀吉に引き立てられてきた秀家ですから、関ヶ原では当然、西軍に参加。
石田三成が表立って動き出すよりも先に、7月5日の時点で豊国神社へ参詣しており、気合の入れっぷりがわかります。
宇喜多家の兵力は1万6,000~7,000程だったと言われ、西軍では毛利家に次ぐほどの数でした。
そしてその毛利軍は”空弁当”で動かなかったのですから、西軍の中で最大兵力を有していたのは宇喜田軍といっても過言ではありません。
宇喜田軍はまず、上方に残っていた徳川軍の拠点・伏見城の戦いに参加し、その後、関ヶ原へ向かいました。
当日もよく戦いましたが、小早川秀秋ならびに四将の裏切りには為す術もなく、敗走しています。

小早川秀秋/wikipediaより引用
秀家はしばらく伊吹山に隠れ、時を見計らって、なんと薩摩まで落ち延びました。
そこで三年間、島津氏の庇護を受けていたようです。
もちろん、家康は秀家を含めた西軍の諸将を捕縛するよう厳命しており、それによって石田三成らが捕らえられています。
秀家が逃亡に成功できていたのは、いくつかの幸運が重なったためでした。
まずひとつは、落ち武者狩りに参加していた矢野五右衛門という人物が、秀家を約40日も自宅に匿ってくれたことです。
現在も彼の子孫が同地にお住まいだそうで、記念碑を作り、このことを伝えています。
ふたつめの幸運は、五右衛門が非常に優秀な人物だったことでした。
彼は「秀家の正室・豪姫が実家の前田家に送り返される。まずは大坂の前田邸に行く予定だ」という情報を手に入れ、秀家を変装させて大坂の前田邸に忍び込ませたのだとか。
これがおそらく今生の別れとなり、秀家はそのまま船で薩摩へ向かったのでしょう。
そして最後に、島津忠恒・前田利長が家康に助命を頼み込んでくれたことです。

徳川家康/wikipediaより引用
かたや薩摩で勇猛な大軍を抱える島津家、かたや外様一番の大大名である前田家。
秀家を死罪にすれば豊臣政権の根絶がより確実になりますが、島津と前田の二大勢力を敵に回す危険性に比べたら些細なものです。
こういて関ヶ原から三年が経った慶長八年(1603年)、秀家は死罪を免れることが確定。
一度駿河に送られた後、慶長十一年(1606年)4月に八丈島への流罪と決まります。
嫡子や一族の者が13名ほど一緒だったようで、秀家はこのときから髪を落とし、”休福”と名乗るようになったとか。
流罪になった身で用いた号であることを考えると、何とも言えない心境がうかがえる気がしますね。
元嫁・豪姫が愛の仕送りを
流罪というのは古来より
「本来は即座に処刑されるべきだが、命だけは助けてやろう」
という刑です
地元から遠く引き離された土地で、自分で衣食住を工面しなければいけません。
いわば生き地獄に等しい刑。
流刑先に到着するまでの間に落ち武者狩りや山賊などに遭い、命を落とす者までいました。
中には、護衛に付けられた者が罪人を殺すというケースまであったようです。
秀家は、ここでも幸運が働きます。
実家・前田家に戻った豪姫が頼み込み、秀家に仕送りをしてくれたのです。
ばかりか、秀家の子孫たちにも行われ、なんと明治時代に罪を解かれるまで続いています。
もちろん凄まじく遠距離の八丈島ですから、決して豊かな暮らしではなかったでしょう。
幸運といえば、八丈島の噴火に遭わなかったこともあげられます。
実は慶長十年(1605年)10月、そして秀家が流されてくる直前の慶長十一年1月に八丈島は噴火しているのです。
もしも少しタイミングがずれていれば、何らかの被害を受けていたでしょうね。
流罪になった後の秀家について、こんな逸話もあります。
あるとき福島正則の家臣が備前の酒を江戸へ届けるため、船に乗っていました。

福島正則/Wikipediaより引用
しかし風向きが変わり、流されて八丈島にたどりつきます。
すると一人の老人がやってきて「あなた方は何をどこまで運んでいるのですか」と聞いてきました。
福島家の家臣たちが正直に答えると、老人はこう答えます。
「私は宇喜多秀家です。もしよければ、故郷の酒を少し分けてもらえないだろうか?」
家臣たちは迷いましたが、流罪になって不自由している相手にここで何もしないのも悪いと思い、少しだけ秀家に酒を分けてやりました。
ですが、良心でやったこととはいえ、勝手にやったことがバレればお咎めは免れません。
江戸へ着いた後、彼らは正直にこのことを正則へ報告しました。
すると正則は逆に家臣たちを褒めたといいます。
正則は三成憎しの一念で東軍についたとはいえ、小さい頃から秀吉に目をかけられて育ってきた人です。
西軍の諸将に対して温情ある振る舞いをした家臣を、咎める気にはならなかったのでしょう。
その後、秀家は静かに暮らし、明暦元年(1655年)に亡くなりました。
享年84。
流罪になった当時はまだ30代でしたので、人生の半分以上を八丈島で過ごしたことになります。
温かい気候が肌に合ったのか。それとも気を取り直して前向きに生きたゆえの長命でしょうか。

八丈島にある宇喜多秀家と豪姫の像
大坂の陣の頃も元気にしていたと思われます。
このことから近年、ネット上で
「宇喜多秀家なら、豊臣家の危機と知れば泳いででも駆けつけたに違いない」
とされ、戦国時代をテーマとしたファンサイトやゲームなどでネタとして用いられました。
面白い解釈ですが、事実ではありませんのでご注意ください。
当時の八丈島は外界とほぼ隔絶されていましたので、秀家が大坂の役を知っていたかどうかはかなりアヤシイです。
ちなみに、秀家のいとこかつ義理の兄弟である明石全登(あかし てるずみ)が、大坂の役に豊臣方で参加。
彼は関ヶ原の際、斬死しようとしていた秀家を止めて自分も生き延びたという人です。
その後は残念ながら主と再会できず、浪人になっていました。
秀家が八丈島ではなく、近畿に近い場所に流されていれば、全登ら宇喜多家旧臣が救出し、主従揃って参戦なんてこともあったかもしれませんね。真田信繁(真田幸村)のように。
彼の子孫は明治時代に東京へ移り住みましたが、そのうち数名が八丈島に戻り、今も秀家の墓を守り続けているのだそうです。
おまけ:子孫が熊本で武士になっていた
宇喜多秀家の別の息子が武士として存在していた――磯田道史先生が読売新聞のコラム「古今をちこち」(2013年8月28日)で明らかにしています。
内容をざっくりマトメますと……。
・宇喜多秀家には、三男とされる2歳の息子がいた
・関ヶ原で負けたことを知った岡山留守居の家臣が、その三男を連れて豊前国宇佐郡(大分県宇佐市)まで逃げ育てていた
・しばらくしてから地元・明円寺の斡旋で、熊本の細川家に仕官しようとしたものの、断られる
・15歳で「黒鍬」(土木作業員)として、名字もない一般人の「太兵衛」として採用
・その後、名字をつけていいと言われたが、さすがに「宇喜多」はまずいので「栗田」と名乗った
・太兵衛の子(秀家の孫)は百姓となって肥後国玉名郡長州村(熊本県北部)で農家をしていたが、またも没落
・さらにその子孫が熊本へ行き、細川家の足軽になり、殿様のタバコ係になって、ようやく武士に戻れた
・関ヶ原からは100年以上経っていた
という経緯だそうです。
この栗田家が、秀家の次男・秀継の用いた浮田(うきた)の名字を使えるようになったのは、明治三年(1870年)11月だったとか。
戦国大名というとはるか昔の人すぎて、現代人からするとフィクションのような遠さを感じるかもしれません。
しかし、こういった話を知ると「彼らが生きていた時代と現代は繋がっているのだ」という実感がわきますね。
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【参考】
国史大辞典
渡邊大門『宇喜多直家・秀家―西国進発の魁とならん』(→amazon)






