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いわゆる重商主義で非難を受けた田沼意次/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 江戸時代

徳川家斉~子どもを55人も作った11代将軍は、目立たぬけれどキテレツな御仁

更新日:

江戸時代になると公的な記録だけでなく、市井の人々の意見もいろいろ記録に残っているのでネタとしてありがたい限り。

本日の主役は天保十二年(1841年)閏一月七日に亡くなった、十一代将軍徳川家斉(いえなり)さんです。

例によって授業だと見事にすっ飛ばされる将軍の一人ですが、彼の時代にはいろいろとデカイ事件も起きています。
というか彼自身もいいのか悪いのかよくわからん記録を打ち立てていますので、順を追ってみていきましょう。

 

一橋家の長男として生を受け、15歳で将軍に

家斉は御三卿のひとつ・一橋徳川家の二代目、徳川治済(はるさだ)の長男として生まれました。
御三卿とは、江戸時代の中ごろに作られた徳川家の分家で、徳川本家と御三家(尾張・紀州・水戸)の次にエライということになっていたので、かなりいいとこの生まれだということになります。
御三家と御三卿がごっちゃになってしまう方はこちらもどうぞ→御三家と御三卿って何がどう違う?徳川吉宗が御三卿の田安家を創設する

しかし、彼にとってはこの生まれが良かったかどうか。
というのも、十代将軍・家治の息子・家基(いえもと)が急死したとき、他に適当な男子がいなかったため、あれよあれよという間に次の将軍候補として家治の養子にされてしまったのです。
そして家治自身もまたその七年後に急死してしまい、家斉は15歳で将軍になりました。

養子入りの際に元服したので一応大人扱いではありましたが、まだまだ若く政治のせの字もわからないような状態ですから、実際に執務を取り仕切るのは老中をはじめとしたお偉いさんです。
この頃、家治時代に重用されていた田沼意次が罷免され、代わりに松平定信が老中首座という老中のリーダー格になりました。

田沼意次

いわゆる重商主義で非難を受けた田沼意次/wikipediaより引用

 

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もとの濁りの 田沼こひしき

その後どうなったかは皆さんご存知の通りですが、当時の人々からはこんな評価がされています。
定信就任直後は「田や沼や よごれた御世を 改めて 清くぞすめる 白河の水」=「田んぼや沼のように汚れた世の中を、白河藩主の定信様が改めてくださるに違いない!」というもの。

しかし、しばらくすると「白河の 清きに魚(うお)の すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」=「白河の水はきれい過ぎて魚も住めない。田んぼや沼のように少しにごっているくらいがちょうどいい」というように変わりました。

民衆が都合の良いことばかり言うのは今も昔も変わりませんねぇ。権力者が変わったくらいで全ての人が暮らしやすくなるのなら、戦争なんぞとっくの昔になくなっているでしょうに。

そんな経緯で定信は数年で失脚するのですが、家斉はその理由が飲み込めていなかった節があります。
というのも、新しい老中首座に定信の補佐役だった松平信明を任じているのです。やり方そのものが悪かったのに、担当者を変えれば何とかなるだろうと思っていたんでしょうね。何だか現代でもありそうな話です。
というわけで定信の方針はその後しばらく続き、幕府の悪評と財政悪化が解決することはありませんでした。あーあ。

 

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子供は全部で55人 どんだけ散財する気だ

さらに、信明や同年代の老中達が隠居し始めると、今度は「ワイロ万歳!」な水野忠成という人物を老中首座にしてしまいます。この時期のワイロについては家斉お墨付きだったというのですから手に負えません。
うるさいのがいなくなった家斉自身も贅沢をしはじめ、それでいて異国船打払令(外国の船は皆ぶっ飛ばせ!というメチャクチャな法律)のせいで余計に財政が圧迫され、もはやどうにもならない状態。

その上家斉自身は正室はもちろん、40人もの側室を抱え、そのうち17人に55人もの子供をもうけるという大散財をしています。27人は早世していますが、それでも残り28人ですから大所帯には変わりません。

いくら乳幼児の死亡率が高い時代とはいえ、これでは財政を立て直すヒマがないのも当たり前です。実家である一橋家が「ウチの血筋で本家を乗っ取ってやるぜゲッヘッヘ。せいぜい頑張れよ(意味深)」(※イメージです)という意向だったからともいわれていますが、それにしたって命中率高すぎやろ。
酒豪の割に長生きだったり、風邪すらほとんどひいたことがなかったようなので、元々かなり頑丈な人だったのは確かですが。

 

将軍を譲った後も実権を握り続ける老害っぷり

ついでにいえば、この間貨幣の改鋳によりずっとインフレ状態が続き、さらに天保の大飢饉が起きたため、民衆の不満も右肩上がりというかリミットブレイクものでした。

よくこれで江戸城に放火とかされなかったものです。打ちこわしでも「ターゲット以外には迷惑をかけないこと」が最低限のルールだった時代ですから、「将軍とお偉方はムカつくけど、お城には他の人もたくさんいるから手荒な真似はならねえ」とか思われてたんですかね。

しかしそんな市民の声は家斉に届かず、息子・家慶(いえよし)に将軍を譲ってもなお実権を握り続けるなど、最後の最後まで良い政治をしようとはしませんでした。
上記の通り、小さい頃にはいきなり将軍候補にさせられ、将軍になったらなったでずっと実家にアレコレ言われ続けたということは、レールを敷かれ続けた人生と言えなくもないので、歳を取ってからではやる気が出ないのも当たり前ですが。

頑健な体がもったいないくらいですが、何というか……戦国時代に生まれていればもうちょっと活躍の場があったかもしれませんねえ。

長月 七紀・記

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参考:徳川家斉/wikipedia 国史大辞典

 





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