シーボルト

シーボルト(右は晩年の肖像画で左は川原慶賀が長崎で描いたもの)/wikipediaより引用

江戸時代

シーボルトは生粋の親日家? あの事件から30年後に再来日していた

1866年(日本では江戸時代・慶応元年)10月18日は、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが亡くなった日です。

長崎で私塾「鳴滝塾」を開いたり。

はたまた彼の名前そのまんまの【シーボルト事件】なんてものがあったり。

幕末のややこしい中でも、割と記憶に残りやすい人ですよね。

今回は彼の性格がうかがえそうなポイントを交えつつ、生涯を追いかけていきましょう。

 


シーボルトはドイツ生まれ 貴族の家柄だった

シーボルトは、1796年にドイツ連邦のヴュルツブルクという町で生まれました。

現在はドイツ・バイエルン州に属し、ロマンチック街道の起点として知られているところです。他にはワインの産地であるとか、世界遺産「ヴュルツブルクのレジデンツ(宮殿)」があることでも有名ですね。

シーボルト家も長い歴史を持つ貴族の家柄で、シーボルトの祖父・父ともに大学の医師を務めていました。

残念ながら、シーボルトは1歳のときに父・ヨハンを亡くしたため、近隣の町に住む母方の叔父に育てられています。

本当は兄と妹がいたのですが、彼らも幼いうちに亡くなってしまいました。この時代ではよくあることとはいえ、母一人子一人という心細い状況にあったのです。

叔父がいなければ、シーボルトも母・マリアも相当苦しい生活になっていたでしょう。

親戚にも貴族階級が多かったと言われていますが、だからといって安穏に過ごせるかというとアヤシイですし。

シーボルトは順調に育ち、19歳のときヴュルツブルク大学の哲学科に入学しました。

が、医師の家系であることから親戚に説得され、医学と動物、植物、地理を学ぶことになります。

在学中は、解剖学の教授の家に住ませてもらっていたようです。

その割にヤンチャもしていて、在学中になんと33回も決闘をしたことがあるのだとか。顔に傷を作ったこともありました。

貴族の誇りを傷つけられたとかそんな感じの理由で口論になり、「よろしい、ならば決闘だ!」となったのでしょうかね……よくそんなんで大学や家から追い出されなかったものです。

それでいて、解剖学の教授から植物学の教授を紹介されているのですから、よくわかりません。

決闘をしていた時期とズレているのかもしれませんが。

何はともあれ、その教授から植物についてさまざまな知識を得たシーボルトは、その興味を広げて博物学全般に強い関心を抱くようになります。

 


「オランダ山間部出身なので訛りがある」と嘘をつき

大学卒業後の1822年にオランダへ移住。

オランダ国王ウィレム1世の侍医とツテを作り、彼を通じてオランダ領東インド(インドネシア)の陸軍病院所属となりました。

その後の手紙に「外科少佐及び調査任務付き」と署名しているため、政府か軍の密命を受けていたと思われます。

また、オランダへ移住した時点で日本へのスパイを命じられていた……と考える説もあるそうです。

でもそのためには「オランダ軍に潜入した上で日本に来る」というNINJAりの潜入技術を持ってないといけないことになるんじゃないですかね……松尾芭蕉忍者説のほうがまだあり得る気がします。

そして1823年、ジャカルタのオランダ軍所属になり、渡海。

ジャカルタ滞在中にオランダ領東インド総督に「日本のアレコレを研究したいので、現地に行きたいです!」(超訳)と希望して許可を得、ついに日本へやってきます。

もちろん行き先は出島であり、オランダ商館の医師となりました。

シーボルト来日時の長崎出島(異国叢書より)/国立国会図書館蔵

実はこの時、密かに歴史の分かれ道がありました。

本当はシーボルトはドイツ人なので、オランダ語に多少のなまりがあったそうです。

日本人の通詞(通訳)よりも不正確だったそうなので、語学は得意じゃなかったのかもしれませんね。

当然日本側に怪しまれたのですが、シーボルトは「私はオランダの山間部出身なので、なまりがあるんですよ^^;」(意訳)とゴリ押したのだとか。

皆さんご存じの通り、オランダには山がないどころか、干拓地が多くて海抜マイナスのところばかりなわけですが、当時の日本人はそんなこと知らないので押し切れた……といわれています。

ここでバレていたら、後のアレとかソレとかが変わっていたでしょうね。

長崎出島
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来日してスグに「日本博物誌」をまとめる

こうして危機を乗り越えた後は、自ら志願しただけあって、研究に全身全霊で取り組んでいます。

来日した年の秋(=2~3ヶ月後)には『日本博物誌』を脱稿しているほどです。筆、早すぎやろ。

その他、出島で診察所を開業し、1824年には出島の外で鳴滝塾を開設していますから、かなり忙しかったでしょうね。

塾では高野長英など、多くの日本人医師や学者に蘭学を教え、良くも悪くも大きな影響を与えています。

おそらくは、弟子たちから日本のあちこちの文化や自然などを聞いたのでしょう。

来日から二年後、1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上もの植物を栽培したといわれています。

その道の知識があるとはいえ、異国の植物をそんなにもうまく育てるのは難しいはずです。

シーボルトはもしかすると「グリーン・サム」や「グリーン・ハンド」と呼ばれるような、栽培の才能を持った人だったのかもしれません。

また、日本の茶の木の種をジャワ島に送ったことがあるそうです。

インドネシアでは何度かお茶の栽培が試みられていますし、失敗したこともあるので、シーボルトが送った種が無事育ったのかどうかはわかりませんが……。

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