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江戸城/wikipediaより引用

日本史オモシロ参考書 江戸時代 その日、歴史が動いた

江戸時代265年をスッキリ解説!徳川家康から幕末までを一気に読む!

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1603年から始まった江戸時代
一般的に【太平】と称されるこの治世は期間が長く、その終わりは1867年の大政奉還とするか、1868年の戊辰戦争スタート(~1869年)とするか、見解が別れたりします。

本稿では戊辰戦争までとしておきましょう。

つまり1603年から1868年で265年間。

非常に長いので、文化・芸術・生活などは後日の記事で見るとして、今回は江戸時代全体をスッキリ整理したいと思います!

 

【江戸時代の区分①~⑤】

江戸時代をスッキリ整理――。
と言っても265年を一気に駆け抜けるには、やっぱり長い。

まずは区分から決めておきます。

【江戸時代の区分】

①家康~家光時代(江戸時代草創期)

②家綱~家継時代(江戸時代安定期)

③吉宗~家治時代(江戸時代変革期)

④家斉~家慶時代(江戸時代衰退期)

⑤家定~慶喜時代(江戸時代幕末)

今回は、上記の区分けに従い、注目度の高い【政治的な流れ】を中心に追っていきますね。

 

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①家康~家光時代(草創期)

関が原の戦いが1600年に勃発。
東軍の徳川家康が勝利を収め、慶長八年(1603年)に家康自身が征夷大将軍になりました。

1614~1615年大坂の陣を知っている我々からしますと、西軍の実質大将である豊臣家を潰す気は満々にも見えます。

が、拠点を江戸にし、自らが関白ではなく征夷大将軍を選んでいることからして、家康は
「豊臣家を公家として残す」
腹積もりだった可能性もありそうです。

当時、豊臣家の当主である秀頼は10歳の少年でした。
公家の当主ならば幼くてもさほど問題はありません。

この時点で豊臣家の血を引く成人した男性はいなかったのですから、秀頼の命や立場が内部的な理由で脅かされるおそれはほとんどなかったといえます。

また、秀吉生前に
豊臣秀頼と、家康の孫娘・千姫を結婚させて、両家の橋渡しとする」
という約束があり、家康はそれを忠実に守っています。

「死人に口なし」
家康がそう考えていたなら、秀頼と千姫を結婚させる理由はありません。
それでも約束を守ったのは、やはり「武力を持たなければ、豊臣家を残してもいい」と考えていたからなのでは……という気がします。

なにせ将軍になって間もない慶長十年(1605年)には、嫡男・秀忠へ将軍職を継承。
豊臣家を滅ぼす気マンマンなら、もっと早い時期にそうしていたのではないでしょうか。

受験では事実だけ押さえておけばOKとされますが、こうした流れを考えておくことが記憶にも繋がると思います。

富永商太・絵

江戸幕府の許可を得て領地を治めている

豊臣家滅亡の前。
徳川との間で、複数回の折衝が行われました。

しかし最終的に和解へ至らず、大坂冬の陣(1614年)・夏の陣(1615年)で豊臣家は血縁ごと滅亡。
唯一、秀頼と側室の娘が千姫の養女になること、すぐに出家することを条件に助命されました。

彼女は天秀尼となり、長じて鎌倉・東慶寺の住職として勤行に励んでいます。

豊臣家の始末と並行して、家康は関が原の際に西軍に属した大名の多くを改易し、約630万石もの領地を浮かせました。
これを徳川家の家臣や親族、そして東軍に所属した大名へ分配し、日本のほとんどを手中に収めます。

ここでミソになるのが、この厳然たる事実です。

◆江戸時代の大名は、幕府(家康)の許可を得て領地を治めている!

室町時代以前は?
というとこれが違いました。

「先祖代々住んできた土地だから、この土地の支配権は俺達のものだ」
という考えが主流。
地侍にとっては当たり前の考え方ですが、中央集権化を妨げる原因ともなります。

平安時代までの朝廷は、地方統治にあまり興味がありませんでした。
また、鎌倉・室町幕府は、集権化を徹底できず、政治基盤の安定さを欠く一面がありました。

初代将軍である家康がそこを克服。
これにより江戸幕府は安定したとも言えるでしょう。

もちろん、他にも家臣の多さや忠誠心、家臣団を含めた兵力と領地=兵糧の多さなども理由ですが、他の幕府になくて江戸幕府の特徴を一つ挙げるとしたら、ここかもしれません。

また、家康は「五十の手習い」ならぬ「生涯学習」をモットーにした人物でもありました。

70歳を超えても川で水泳をしたり、鷹狩したり(実はめちゃめちゃハード)、大坂の役で陣頭指揮をしていたり。
学業の面でも、最晩年まで商人や僧侶、学者、外国人などあらゆる層から知識を得て、新しい政治形態を作ろうとしています。

外交方針はどうなった?鎖国は?

外交問題も、家康の時代には方向性が大体決まっていました。

大坂の役の前までは、ルソン(フィリピン)やカンボジアなどと親善・通商を図っています。
また、秀吉時代に悪化した朝鮮との関係回復にも心を砕き、対馬の宗氏を窓口としました。

そのおかげもあって、江戸時代を通じ、朝鮮からの使者である朝鮮通信使が、新将軍就任祝いなどの際にやってきています。

朝鮮通信使については過去記事があるので、興味のある方はこちらもご覧ください。

江戸時代’(江戸城内)の朝鮮通信使/wikipediaより引用

【関連記事】朝鮮通信使

ヨーロッパ=キリスト教国については、慎重な方針を取りました。

家康の外交顧問はイギリス人ウィリアム・アダムス
そのため、当時イギリスと、東南アジア貿易を巡ってライバル関係にあったオランダや、カトリックの布教を強く望むスペインに対しては警戒心を抱いていました。

スペインについては、伊達政宗が家康から許可を得て、自分の家臣である支倉常長を正使とした慶長遣欧使節を派遣しています。

しかし、その間に日本ではキリスト教がご法度となり、またスペインも、実はアルマダの海戦(1588年)以降はの国力下火になっていたことが判明、通商が持たれることはありません。
戦国時代から付き合いの深いポルトガルについては、生糸輸入で日本が大損しないよう【糸割符制度】で統制を実施しました。

そして、慶長十七年(1612年)の岡本大八事件以降、キリスト教は全面禁止という方針が確定(鎖国については段階的に進む)。
同十九年には高山右近・内藤(小西)如安ら三百人前後のキリシタンがルソンへ追放されました。

この措置によって職を失ったキリシタン浪人が、大坂の役で豊臣家方についたことも、後に徳川がキリスト教を危険視する一因になったと思われます。

明については、家康の時代には国交回復が困難と考えられました。
そこで長崎での貿易を商人たちに許可し、民間でのお付き合いのみ。

琉球は島津氏に、蝦夷地(アイヌ)は松前氏を窓口としています。
どちらも決して穏やかな方法だけではありませんでしたが……。

秀忠以降の治世について

家康の事績を引き継いだ二代将軍・徳川秀忠は、娘・和子を入内させて朝廷への楔としました。

これを機に外様大名に限らず、徳川家の親族(親藩)や譜代大名についても厳しく統制し、支配権を盤石に固めています。

尾張・紀州・水戸の御三家が確定したのも、秀忠の時代(元和五年=1619年)。
本家を支える分家の有無は、政治の中枢に影響しますからね。

【関連記事】御三家と御三卿

キリシタンについては、より一層厳しく対応しています。

中国船以外の船の出入りは長崎・平戸に限定。
江戸や京都では十人組を設置して、キリスト教がこれ以上広まらないように努めました。

また、日本ではこれまで中国の貨幣を使っている時代が続きましたが、江戸時代に入ってようやく【金貨・銀貨】や【銅銭】を国産するようになります。

他には、交通網の発達も江戸時代初期に始まりました。
東海道や中山道には宿場町が多く作られ、一里塚と植木の設置により旅人の休息を促しています。

また、新たな航路も開かれ、流通が活発になりはじめました。
日本の伝統的な航海術では、星や海図などを使わず、陸地に沿って船を動かしていたのですけれども、そうなると千葉の犬吠埼沖や、淡路島~四国間の鳴門海峡など、難所を通らざるを得ない場合がでてきます。

これらを避けて長距離を航行できる航路が江戸時代に開かれたことは、物流を大きく加速させました。

モノが流れれば、それを運ぶ人や、売り買いのためのお金も動くことになります。
こうして、江戸時代の都市は各地で発展していったのです。

それは同時に、生産者=第一次産業の従事者よりも、製造・建設業=第二次産業や、小売・サービス業=第三次産業の人々の増加に繋がりました。

よく時代劇に「町人」って出てきますよね?
彼らは、大半が第二次・第三次産業に携わっている人です。

しかし、そのためにある問題がおきます。
第一次産業の従事者が減ってしまうと、農産物や海産物の生産量も減少します。

江戸時代は、全体的に寒冷な気候。
そのため飢饉が頻発する一因ともなりました。

各地の大名は、灌漑整備や農地開発、農民や学者は農具の開発や品種改良等をして、それぞれ工夫はしておりましたが……。

家光の時代に進む統制

家光の代になると、大名への統制とキリスト教禁止の動きはさらに強まっていきます。

幕府の専制ぶりが明らかになった時期ともいえますが、最終目標が「日本という国を安定させること」であれば、これらの施策は苛烈ではあっても不要とはとはいいきれません。
そもそも民主主義なんて概念のない時代ですしね。

大名が力を持ち続ければ反乱→戦の流れになってしまいますし、キリスト教信者が増加すれば、信仰による恐ろしい団結力が増していきます。
こうした勢力が、仮に朝廷と結びつけば、江戸幕府そのものの存続も危うくなる。

かくして家光の代では、幕府安定のため手綱を緩めるわけにはいかず、次のようなことが起きました。

・島原の乱鎮圧
・日本人の海外渡航&帰国禁止などによる鎖国体制
・キリシタン迫害

また、家光の時代には、幕府内の役職も数多く定められました。

◯◯奉行や老中・若年寄など。
江戸時代によく出てくる役職は家光の代に出てきたものが多くなっています。

また、全国の大名の様子を探る「巡見使」という役職もありました。これにより、幕府の支配が一層進みます。

寛永十三年には【寛永通宝】が発行され、日本国内での貨幣統一に成功。
経済の活性化を促します。

というと、こんな疑問も湧きますよね?

『それまでお金って、統一されてなかったの?』

えぇ、その通りなんです。
ちょっと江戸時代からは離れますが、貨幣経済の浸透は江戸時代のカギでもありますので、少し遡って見ておきましょう。

8世紀、皆さんご存知の【和同開珎】という国産の銅銭が作られ、その後【皇朝十二銭】と呼ばれる十二種類のお金が作られます。
しかし、改鋳ごとに銭の質が悪くなり、信用は失われていきました。

銭の信用=価値は、どう決まるか?
というと、その価値に見合う材質や、発行体(幕府)の信頼度が直結します。
要は硬貨のための資源が必要。

朝廷が、質の良い貨幣を作れなくなると、11世紀には銭よりも反物などの物々交換(物品貨幣)が信用されるようになりました。

平家政権の時代には、日宋貿易で宋銭が大量に輸入され、鎌倉・室町時代まで使われていました。
が、こちらは日明貿易の断絶や、明において銅の算出(鋳造)が減り、日本に銅銭がほとんど入ってこなくなります。

そのため、中国の銭を真似て作った私鋳銭や、各地の戦国大名によって作られた金貨・銀貨などを使用。
銅銭への信用は再びガタ落ちして、米を物品貨幣とする経済形態が全国で安定するようになりました。

無理やりまとめると
・江戸時代以前
・貨幣は信用されず
・米や金銀でまかなわれた
となりますね。

そもそも全国への支配力を安定させられなければ、統一貨幣を普及させることは不可能です。
江戸時代以前に実行できなかったのも、むべなるかな……。

といっても、江戸では金貨、上方(京・大阪)では銀貨が主流。完全に統一されたワケではありません。
あくまで「江戸時代の前と比べれば整備されて便利になった」という感じですね。

他に、藩の中でだけ通用する【藩札】という紙幣もありました。
1999年にあった地域振興券みたいなもので、刷るだけで使えるためほとんどの藩で用いられています。そして借金膨大の原因になります。

備後福山藩の藩札/wikipediaより引用

貨幣経済の統一は、経済の拡大を呼び、社会の構造も変化しました。

織物を始めとした手工業の発展。
それらを売る商人。
物を運ぶ船運業など。

多方面で需要と供給、そして雇用が生まれました。

しかし、第二次・第三次産業の発展は、前述の通り、第一次産業従事者=農民の数がヘリ、依存度の偏重に繋がります。地球全体が寒冷な時代であり、日本でも度々飢饉が起きるようになったのも先の説明どおりです。

これはさすがに幕府や武士のせいではありません。
しかし、冷害に弱い米ばかり作らせ、環境に強い作物を奨励しなかったりしたため、飢饉のたびに農民の逃散や都市部への流入が起き、治安悪化などを招きます。

島原の乱も、キリシタンだけでなく困窮した農民が加わっていたとされます。
ですので、家光の時代に対策に乗り出していればよかったのですが……残念ながらそうはなりませんでした。

なお、参勤交代については「大名の経済力を削ぐため」という点がよく強調されます。
同時に「領主が、地元の実情を把握するため」でもありました。




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室町幕府の頃、有力な大名が幕政に参加するために京都に居続けたせいでに、国元でのトラブルが相次いだことを踏まえていたのかもしれません。

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