日清戦争

豊島沖海戦を描いた浮世絵/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日清戦争の攻防を一気読み|朝鮮半島がカオスとなった顛末を振り返る

明治27年(1894年)7月25日は日清戦争が始まった日です。

正式に宣戦布告したのは同年8月1日のことですが、この7月25日に豊島沖で日本艦隊が清の軍艦と交戦し、勝利を収めたことから実質的に両国は戦闘状態へ入りました。

日本にとっては近代化を進める上で最初に起きた他国との戦争。

一体なぜこのような争いが起きてしまったのか?

いくつかの前提を踏まえながら、一連の流れをスッキリ整理してみましょう。

 


清との結びつきが強すぎた朝鮮王朝

日清戦争という字面だけ眺めますと、日本と清が互いの領域を求めてやりあった――そんなイメージが浮かぶかもしれません。

しかし同戦争は、舞台のほとんどが朝鮮半島であり、キッカケも朝鮮半島でした。

これには古来からの因縁と、当時の国際事情が大きく関係しています。

朝鮮半島は、中国に比べて資源や耕作地に乏しく、歴史は古いながらも独立を維持することが難しい立地でした。

そのため、基本的に中国の歴代王朝に従属して国の形を保ってきています。

これが中国伝統の中華思想(「なんでもある豊かな土地で、優れた文明を持つ中国が世界の中心だ!」という考え方)と実に相性が良く、それゆえに両国は均衡の取れた関係を保ってきたのです。

千年単位でそういう刷り込みがあったため、近代になって清が【アヘン戦争】などによりボロボロになっても、朝鮮は「中国を頼っていれば大丈夫」という価値観から脱却しませんでした。

実際、本当にそれでどうにかなってきたのですから、これは致し方ありません。

また、清も清でアヘン戦争後も「我が国が世界で一番エライ!」という中華思想を持っている人が大多数で、西洋化・近代化の導入には消極的。

改革に積極的な人が出てきても、だいたいが押し潰されたり、力不足で成功しなかったのです。

欧米諸国からすれば、こんなに狙い目な土地もありません。

この頃までに、地球上のほとんどの陸地は彼らに切り取られてしまったのですから。

 


西洋に対抗するため

一方、東アジアが本格的に欧米の支配下に置かれてしまうと、一番困るのは日本です。

これまでは航海技術の不足や距離的な問題で、日本が欧米諸国の侵略を受ける可能性は極めて低いものでした。

それが蒸気船の登場により、幕末あたりから非現実的な話ではなくなってきます。

この状況でもし、ごく近所の朝鮮半島がロシアや欧米諸国のものになって拠点ができてしまうと、日本は滅亡の危機――というわけです。

そのため、日本は清に

「これからは積極的に協力しあって、西洋に対抗していきましょう」

朝鮮へは

「独立・近代化して自分の身を自分で守らないと」

と持ちかけまたのですが、どちらも突っぱねられてしまいました。

当初の日本は、強引に朝鮮半島の支配を目論んでいたわけではないと考えるほうが自然です。

資源が乏しい上に中国とロシアに挟まれる立地は、維持のためにお金と人的資源が必要になります。

しかし、朝鮮にも大勢の人が住んでいるわけで、完全に見殺しにするとお互い損ですし、古くからの付き合いもあります。

ならば朝鮮自身に強くなってもらおう!

そうすれば、彼らが自らの手で自国を守り、こちらも侵略される恐れがなくなって万々歳というわけです。

そこで日本としても、朝鮮の近代化に援助を提供しました。

それは自らの身を欧米列強から守りたいという、日本の自国防衛のための先行投資でもありました。

 

清では西太后 朝鮮では閔妃

もうひとつの大問題は、この時期の清と朝鮮が政治家や軍人に恵まれなかったことです。

清の中枢にいたのが西太后で、朝鮮では閔妃という女性。

二人とも政治センスが皆無な割に金遣いが荒い&人の使い所が完全にトンチンカンで、しかもそれを誰も止められませんでした。

これは「女性だからダメ」というのではなく、古来から儒教による価値観で「女に学問や政治は無理」と思い続けていたため、女性に教育をしてこなかったツケがここに回ってきたのではないでしょうか。

もしここで清・朝鮮が旧来の価値観から脱却し、日本と三国で協力できていたら、20世紀の歴史は大きく変わっていたのでは……。

欧州での世界大戦は不可避だったかもしれませんが、少なくとも東アジアの状況は異なっていたハズです。

とまぁ、歴史のIF話はロマンということで、そろそろ現実に起きたことへ話を戻しましょう。

前述の通り、日清戦争は朝鮮半島に関する戦いです。

当然、朝鮮の政治事情も大きく絡んでいます。

当時の朝鮮半島は、宗主国である清の弱体化などによって、非常に混沌としていました。

「今までも清を頼りにしてきたんだから、これからもいざというときは清に頼ればいい」

とする守旧派と、

「日本は最近、清よりも力をつけてきているから、これからは日本を見習って近代化するべき」

と考える開化派が対立していたのです。

当時の朝鮮の実質的な王様だった大院君は西洋嫌いで、キリスト教に対して激しい弾圧を加えるなど、守旧派でした。

そのため、国内では前者が優勢になります。

 


明治政府でも征韓論を機に内紛へ

しかし朝鮮も次第に、世界情勢を無視しっぱなしには行かないようになります。

当初の朝鮮は、明治に入ってからの日本が「私達と同じように開国・西洋化して、近代的なおつきあいをしましょう」という手紙を送っても、これを無視する有様でした。

朝鮮政府は「“皇帝”は清の皇帝しか認めません! ニセ皇帝の手紙なんか受け取りません!」という態度を貫き、手紙を読むどころか受け取りすらもしたがらなかったのです。

このため、明治政府内でも【征韓論】を巡る政争が起きます。

西郷隆盛は、朝鮮に渡って開国・近代化の交渉を進めようとしました。

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しかし結局は「とりあえず朝鮮は後回しにしよう」ということになります。

反征韓論の大久保利通や岩倉具視らは、朝鮮をつついて万が一紛争に発展し、ロシアほか欧米の列強に付け入る隙を持たれたらヤバイと考えたのです。

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結局、征韓論で負けた西郷はその後、西南戦争(1877年)へと駆り立てられ、板垣退助が自由民権運動(1874年~)に進みます。

そしてその間も朝鮮は相変わらず攘夷の意向を強めていました。

日本国内でのほとぼりが冷めた頃、明治政府は再び朝鮮へ使者を送りました。

それでも朝鮮の態度は頑ななまま。

しびれを切らした明治政府は、軍艦を派遣して空砲を撃つなどの威圧を行い、朝鮮との談判を進めようとしました。

さらに測量や朝鮮政府への薪水要求などまでしようとしています。

……これって幕末のペリーと全く同じやり方なんですよね。ここらへん、日本側も芸がないというか下地がないというか。

当然、朝鮮政府は不快感を示し、小競り合いが起きて事件になりました。

これが江華島事件(1875年)です。

江華島事件/wikipediaより引用

このときは両国ともに「現場の人間がイライラしすぎて起きた偶然の事故」と認識し、大きな問題にはしませんでした。

しかし、江戸時代からの朝鮮通信使など往来等によって悪い間柄ではなかった日本が、半ば武力行使に出てきたことは、さすがに朝鮮政府でも重く受け止められます。

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これをきっかけに、朝鮮政府でも開化派が勢力を伸ばし始めます。

それでもトップの大院君が守旧派なので、急激には変わりませんでしたが。

 

ソウルで壬午の変が勃発

日本は江華島事件の翌年、一方的に不平等条約である日朝修好条規を結んで、朝鮮に国際法を意識させようとします。

これは当時日本に来ていたお雇い外国人であるギュスターヴ・エミール・ボアソナードというフランス人法学者の意見も影響していました。

ボアソナードは朝鮮のいくつかの港を開かせることなど、明治政府に「決して譲ってはならないこと」を提案したといいます。

この条約ではその他に、貿易に関することや、日本以外の諸外国の漂流民に関する扱いなどが取り決められました。

不平等条約である最大の理由は、領事裁判権があることです。

これは「日本人が朝鮮の開港地で罪を犯した場合、日本人領事が裁判を行う」ということです。

しかし、もともと朝鮮通信使の時代にもそんな感じだったので、朝鮮側も大した問題とは思わなかったとか。

逆に、日本が要求した最恵国待遇については、朝鮮側の大反対で削除されています。

なぜか?

この時点では「朝鮮は今後も欧米に対して開国するつもりはない(比べる対象がない)ので、最恵国待遇をする必要がない」と主張されたからです。

隣の清を見ていれば、それはほぼ不可能なことくらいわかりそうなものなのですが……。

というか、清が偉大であったことはわかるのに、その清が弱体化して西洋諸国にボロボロにされたことがわからないというのが何とも。まぁ、面倒なので認めたくなかっただけかもしれませんが。

ただでさえ、よそ者にデカイ顔をされるのは不愉快なものです。

朝鮮に進出した日本人の中にも、西洋化が進んでいることなどを笠に着る不届き者がいたため、朝鮮人の反感を煽ることになってしまいました。

それが極まって【壬午の変】という暴動事件まで起きました。

このため、日本は自国民保護の名目でソウルに軍を駐屯させるようになります。

 

「閔妃と日本のせいでめちゃくちゃだ!」

これらの動きに対し、宗主国である清も黙ってはいません。

清から見れば、この時期の朝鮮は数少ない“威圧が通じる”相手です。失うわけにはいきません。

やがて清に押され、朝鮮での日本の権益は衰え始めました。

この間、イギリスとロシアも東アジアでの覇権を巡って対立を深めていました。

日清戦争の後から日露戦争あたりで本格的に影響してきますので、別の記事で詳細に触れますが、頭の片隅に入れておくといいでしょう。

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一方、日本の動きとは無関係なところでも、朝鮮の政治は腐敗していました。当時の王様の妃・閔妃が我が子を次代の王にするため、あっちこっちに莫大な賄賂を送りまくっていたのです。

さらに、上級役人は私腹を肥やすために軍の給料(米)をちょろまかしていました。絵に描いたようなダメっぷりです。

さらに、日本がイギリスから綿製品を仕入れて朝鮮で売るという中継貿易を行ったことにより、貿易赤字が常態化。

こういうとき、最終的に全部のしわ寄せが行くのは庶民です。

文字通り、食うや食わずの状況に陥った彼らも、最悪の選択をしてしまいました。

このころ大院君は閔妃によって政治中枢から追い出されていたのですが、その政権交代&日本が進出してきた&庶民が苦境に陥ったタイミングがかぶるため、

「閔妃と日本のせいで、俺達の生活はめちゃくちゃだ! あの女も日本人も追い出して、大院君様に戻ってきてもらえば元通りの生活ができるに違いない!」

と考えてしまったのです。

前半は合ってたかもしれませんが、攘夷・鎖国派のトップである大院君を再び担ぎ上げようとするのはどう考えても時代にそぐわないことです。

しかし、世界情勢をよく知らない一般民衆の視点ですから仕方ないかもですね。

 

壬午軍乱

一方、閔妃の夫である高宗は、さすがにもう少し現実が見えており、近代化を急ごうとします。

しかし、幼いころに即位してずっと大院君の院政状態だったので、あまりにも近臣に味方が少なすぎました。

高宗と同じく近代化を進めたい金玉均という官僚は、

「近場で近代化を成功させた日本に学ぼう」

と、実際に留学もしていたのですが。

しかし、政治が良い方向へ固まる前に、朝鮮国民の堪忍袋の緒が切れるようなことが起きます。

金玉均/wikipediaより引用

金玉均らが学んできたことを元に、朝鮮の軍も近代化を始めていました。

装備や練度はもちろん、待遇も比較的良かったようです。

しかし、元から豊かとはいえない財政状態で近代化を進めるため、旧式軍の予算を近代化軍に使ってしまいました。

大院君派の旧式軍からすると

「なんで伝統を守ってきた俺達が苦しい思いをしているのに、新参者の作ったアヤシイ軍が好待遇なんだ!」

としか見えません。そりゃそうだ。

政府はこれをなだめるために、旧式軍にも給料を払いました。

が、なんとこれは13ヶ月ぶりの支払いだった上に、本来支給されるべき米の半分は途中の役人にちょろまかされ、糠(ぬか・皮などの部分)に変えられるというヒドさ。

耐えに耐えてきた旧式軍はついにブチキレ、【壬午軍乱】という内乱を起こしてしまいます。

 

閔妃が泣きつき清が3,000の軍を出兵

同じく苦しめられていた庶民たちも旧式軍に合流し、宮殿を襲撃。

当時軍事顧問として渡海していた日本の担当者もブッコロされるという惨事に発展してしまいました。

外国で自国民が殺されれば、当然政府は抗議をするものです。それが原因で国際戦争になることも珍しくありません。

さらに、ここでも閔妃と大院君の動きが最悪の方向に作用しました。

壬午軍乱の黒幕は大院君だといわれています。このとき、閔妃を追い出して政権に復帰したのです。

閔妃も黙っていません。

彼女は清に対して泣きつきました。

「ウチの国、ならず者たちのせいで大変なことになってしまったんです~……清帝国様のお力でお助けください!」

清も既に列強諸国に切り取られてボロボロでしたが、近場かつ千年単位で子分にしてきた国にまでナメられたくないので、軍を出すことに……。

このとき3,000の兵を送ったのが袁世凱でした。

後に中華民国の大総統として知られる袁世凱/wikipediaより引用

近現代史ではたびたび出てくる名前なので、何となく見覚えのある方も多いのではないでしょう。

ここで日本が朝鮮と清に対し「待った」をかけます。

日朝修好条規で「朝鮮は独立国だから、今後何かあったとしても、清が助けるのはダメ」ということになっていたからです。

そして日本からも1,500人の兵が壬午軍乱の収集をつけるために渡海したのですが、既に大院君が返り咲いて事を収め、さらに清の軍も到着してしまっていたので、どうにもできませんでした。

 

清は【北洋艦隊】で日本にプレッシャー

清を味方につけた閔妃は再び大院君を締め出し、今度こそ権力の私物化を図ります。

自分の親戚ばかりで高官の座を埋め、清に頼り切る道を選んでしまったのです。

「そんなことばかりしていれば国が危くなる!」と危惧した金玉均らは、どうにかして近代化路線を復活させようと考えます。

しかし政争でもクーデターでも閔妃一派に勝てそうにないので、日本を頼ろうとしました。

一方、この時点では日本も軍事的な手は出せませんでした。

この頃、清は【北洋艦隊】という新たな艦隊を作り、露骨に日本対策をしていたからです。

北洋艦隊の母港である威海衛湾内/wikipediaより引用

この艦隊の旗がまた興味深いデザインをしています。

日本の象徴ともいえる日輪を、中国皇帝の象徴である龍が飲み込もうとしている図案なのです。

北洋艦隊旗 photo by Sodacan /wikipediaより引用

しかも黄色=皇帝の色という徹底ぶり。

「中華思想を捨てるつもりなんて、これっぽっちもありません!」と大声で叫んでいるも同然ですね。

その強気、アヘン戦争の前に出しておけばよかったと思うのですが……まあ、イギリス国旗は丸のみできないというか、刺々しくて喉や食道に突き刺さりそうですが。

ここでまたややこしくなるのが、当時清がやっていた別の戦争である【清仏戦争】です。

平たくいうと「ベトナムを巡る清とフランスの戦い」であり、清は海戦で壊滅し、早急な対応が必要でした。

そのため、朝鮮に送っていた清軍のうち1,500人を引き揚げさせ、いざというときベトナムへ送れるように備えたのです。

清の実質的な君主・西太后としては

「北洋艦隊をベトナムへ行かせなさい!」

と言っていたのですが、当の北洋艦隊のトップ・李鴻章が

「ウチの艦隊は対日軍なんで、あんな遠いところまで出せません」

と断っており、その代わりに朝鮮駐留軍を半分持ってきたというわけです。

 

金玉均が日本へ出兵を要請

これを見た金玉均は、日本へ

「今なら清軍が減っていますから、クーデターを起こせます! 協力してください!」

と連絡。

しかし日本は渋い顔をします。

「清軍はまだ1,500もいるし、もしかしたら清仏戦争もスグに終わるかもしれない。李鴻章もどうするつもりだかよくわからない。北洋艦隊だってすぐに朝鮮まで来られる。こっちだって余裕ないのに、今、朝鮮に手を出して大損するわけにもいかないワケで……」

これが1884年の出来事です。

西南戦争からわずか7年。日本は憲法(大日本帝国憲法)すらできていなかった頃の話でした。

そりゃ、他国に手を出してる場合じゃありません。

しかし、朝鮮にいた日本の担当者がテキトーな返事をしてしまい、藁にもすがる思いの金玉均は見切り発車のクーデターを敢行してしまうのです。

金玉均は、一時、閔妃一派の締め出しに成功したものの、清の袁世凱が軍を派遣したため、たった3日で失敗。命からがら日本へ亡命します。

せめて高宗を連れていければ政治的な勝ち目もありましたが、それもできずに終わっています。

このクーデターを【甲申事変(政変)】といいます。

ちなみに金玉均は、甲申事変の翌年に李鴻章との交渉のため、清に渡ったとき暗殺されてしまいました。

妻子は後に、偶然、日本に保護されたといいます。

なお彼は、朝鮮を私物化したいとかではなく、清・日本との協調体制を整えて欧米に対抗したい――という意欲を持っていたとされ、残念な結果となってしまいました。

 

天津条約で朝鮮不介入を同意したが

この後しばらく、日清両国は静かな政争を重ねます。

とはいっても、実質的には互いに軍備のための時間を稼ぐ目的だったでしょう。

1885年には、日本と清の間で甲申事変の事後処理として【天津条約】を結びます。

ざっくりいうと「今後、日本も清も朝鮮半島に対して軍事的な介入はしない。もしやむを得ず介入しなければならない場合は、互いに相談すること」という内容です。

しかし、清は軍拡を進めて日本を威圧することに腐心しました。

だから、なぜそのやる気をアヘン戦争の前に……(ry。

なけなしのお金を使って最新式の戦艦「定遠」「鎮遠」をドイツから購入し、北洋艦隊に配置。

さらに1886年に、これらの船を長崎まで補給名目で見せびらかしに来ています。

清の戦艦「定遠」/wikipediaより引用

ついでと言わんばかりに、長崎の町でこれらの船の乗員たちが暴行事件まで起こしました。

ここでコトが大きくなれば、自慢の大砲をぶっ放されて長崎が町ごと崩壊してしまうかもしれない。

また、清の目的もこの時点では開戦ではなく威圧のため、イギリス人及びフランス人の弁護士を間に挟んで和解しました。

 

日本から一方的に仕掛けたわけじゃない

実はその後も、北洋艦隊はたびたび長崎にやってきます。

日本史の授業ではそこまで習わないため、日清戦争も日本が仕掛けていった――そんな単純な印象も拭えないのですが、決して一方的ではありません。

北洋艦隊としても、威圧と念押しが目的だったのでしょう。

しかしここでまた、西太后の行動が裏目に出てしまいます。

当時、西太后は自分の還暦祝いなどに多額の国費をムダ遣いしており、そのせいで北洋艦隊のメンテナンスができないほどになっていたのです。

その状態でも長崎に来た上、「清はまだまだスゴイんだぞ^^」と主張するために日本の要人を戦艦「定遠」に招き、あまつさえ船内の見学までさせました。

後に自沈した「定遠」/wikipediaより引用

そのせいで定遠のボロボロっぷりどころか、構造や船員の練度の低さまで日本にバレてしまいます。

なぜ清側の人間は誰も止めなかったんですかね……。

このときの日本としては

「いずれ清と戦争することになりそうだけど、今のままじゃ全く勝ち目がない。どこからでもいい、とっかかりになるポイントを探さなければ!」

と思っていたところでしたから、定遠見学はまたとない機会だったでしょう。

 

明治天皇が皇室予算を軍備に提供!?

情報が集まれば、次は具体的な軍備が必要になってきます。

しかし、日本もお金が足りません。

繰り返しになりますが、この頃の日本にはまだ憲法も議会もできていないのです。

不平士族の反乱の鎮圧に人やお金を使っていましたし、産業もまだ拡大できていない状態ですから、とにかくお財布事情は厳しい。

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そこで明治天皇が「皇室予算(内廷費)のうち30万円を軍備に使うように」と命じます。

明治天皇の日頃の言動からすると、これは「即座に開戦せよ」という意味ではなく、「清にナメられないように軍を整えよ」という意味だったのでしょう。

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これに政府はもちろん、当時の国民皆がビックリ。

「お上にお金を出させるなんて畏れ多い! 我々も少しずつお金を集めようではないか!」と奮い立ち、合計200万円が国民から集まったといいます。

もちろんこれは現在の貨幣価値ではありません(公務員の初任給が50円だった頃の話です)。

こうして230万円を軍備に使えるようになった日本は、どうにか戦う準備はできるように。

目玉だった新艦の建造は日清戦争には間に合いませんでしたが、日露戦争で活きることになります。

 

甲午農民戦争が起きて清が派兵

こうして甲申事変から10年経った1894年。

ついに日清戦争が始まります。

といってもスグにドンパチやらかしたワケではなく、あるキッカケがあり、日本でも清でもなく、朝鮮自身でした。

この10年間、私腹を肥やし続けた閔妃とその腹黒い親族たちに、ついに朝鮮の一般民衆がブチ切れ【甲午農民戦争】という内乱を起こしたのです。

相変わらず閔妃たちには国内の乱を収める力がないので、今回も清に泣きつきました。

これに対し、袁世凱が兵を派遣。しかし天津条約に違反する行為ですから、日本は当然クレームを入れます。

清の言い分は「清の皇帝がいいって言ってるんだからいいの!」という屁理屈でした。

おそらくや明治政府も、清がきちんと条約を守るとは思っていなかったでしょう。

当時の清には「条約を破れば、国際的に信用を失う」という考えがカケラも見えませんでしたから。

逆に、条約に基づいていれば国際社会を味方につけることができるわけです。

そのうち甲午農民戦争が収まってしまったため、最悪の事態は避けられたかに見えました。

しかし、既に日清両軍とも朝鮮半島で戦闘ができる状態ですから、そう簡単には退けません。

 

ついに日清戦争の開戦

そこで日本軍は漢城(現・ソウル)を制圧し、閔妃を追い出して大院君に迫ります。

「私達が清軍を追い払いますので、もう一度あなた方自身で自分の国を守りませんか」

大院君も閔妃にはさんざん手を焼いていましたし、自分の国も保ちたいので

「日本がウチの領土を盗らないなら」

という条件で了承します。

こうして半島での拠点を得た日本軍は、清軍の後続がやってくる前に動き出しました。

まずは清から朝鮮へやってくる補給船を探し【豊島沖海戦】で撃破。

このとき、清の北洋艦隊指揮官である方伯謙(ほうはくけん)は、恥も外聞もなく逃げ帰りました。

方伯謙は「艦隊温存のため」という、なんだかボヤけた言い訳を残しておりますが、後年の日本軍のことを考えると手放しでは笑えないところです。

ちなみに、このとき撃沈した船はイギリス船でした。

本来ならイギリスから日本へ抗議をするところですが、日本は最後通牒をした上での行動だったので、国際社会からは

「なんだ、日本はあらかじめ警告していたんじゃないか。それなら、そもそも条約を破った清が悪いよね」

とみなされ、責任を追及されることはありませんでした。

この辺は、天津条約にいかにも清が守らなさそうな一文をねじ込んでいた明治政府の作戦勝ちといえるでしょう。

また、陸戦でも清軍の指揮官・葉志超(ようしちょう)が逃げまくり、日本の勝利となりました。

 

平壌攻略で万事休す!と思ったら

ただし、日本軍も連戦連勝だったわけではありません。

朝鮮半島から中国本土に進もうとすれば、平壌を通ることになります。

ここには、ガトリング砲つきの大要塞が築かれていました。

しかも日本軍の装備や兵数は要塞側に及ばず、食料・弾薬も一両日分しかなかったのです。

しかし、戦場では何が起きるかわからないもの。

増え続ける死傷者を憂いた日本軍の間で「万事休す」と思われたその時、圧倒的有利を保っていたはずの清軍がなぜか白旗を掲げるのです。

現代の我々が聞いてもわけがわかりませんが、たぶん当時の日本軍も「( ゚д゚)ポカーン」状態になったことでしょう。

実は、平壌要塞の指揮官が、逃走を繰り返した指揮官・葉志超でした。

彼はあいかわらず自分の命を惜しんでいました。さらに、徹底抗戦派の左宝貴という人が戦死したため、ここでもとっとと逃げるために白旗を挙げさせたのです。

もはや、何のために軍人やってるのかわかりません。

いくら清が人材不足とはいえ、葉志超よりマシな人はいたと思うのですが……。

これはもちろん、清のほうでも想定外。

長期戦を見込んで平壌要塞へ増援を送るために船を出していたのですが、これが日本海軍に見つかって【黄海海戦】が起きます。

この中の「済遠」という船に乗っていたのが、豊島沖海戦で逃げた方伯謙でした。

ぶっちゃけ彼らがいなければ、日本も相当ヤバかったハズです。なんせ方伯謙ときたら、このときも艦隊からただ一隻逃げ帰ろうとして、清海軍の足並みを乱すのです。

清海軍にとって頼りとなるのは北洋艦隊自慢の戦艦「定遠」と「鎮遠」。

上記の通り、メンテナンスもできない状態で無理やり動かしていたので、まるでギャグマンガみたいなことが起きてしまいます。

それが「自分の主砲を撃った衝撃で艦橋が壊れる」というのもの。

しかも、そのせいで指揮官の丁汝昌が負傷し、北洋艦隊はどうにもならない状態に陥りました。

こうして北洋艦隊の船はあれよあれよという間に壊滅し、黄海海戦も日本の勝利に終わります。

小国の日本が大国の清を破る様子を描いた風刺画/wikipediaより引用

 

下関条約が結ばれ朝鮮は独立国になる

まとめると、日清戦争は「清の中身がダメダメだったせいで日本の圧勝に見える」戦争だったといえるでしょう。

もしも清にまともな指揮官がいたら、全く違った結果になっていたはずです。

しかし、清では「いろいろあったけど、偉大な我が国がちっぽけな日本なんかに負けるわけないじゃん。幻でも見たんじゃないの?」みたいな態度を取り続けました。

一応、和平交渉のために、北洋艦隊の創設者でもある李鴻章が日本にやってきます。

が、ここで日本人の暴漢が李鴻章を襲撃、重症を負わせるというとんでもない事件が起きました。

そのせいで日本は、条約内容をいくらか譲歩せざるを得なくなります。

それでも、この講和条約である【下関条約】では、日本の狙いは概ね達成されました。

清に対して、改めて「朝鮮は独立国である」と(少なくとも書面上は)認めさせ、賠償金も清の国家予算2年半分をもぎとっています。

さらに遼東半島や台湾などを割譲させ、軍費の回収や増強に充てました。

ただし、この最後の部分が、日露戦争のキッカケのひとつにもなります。

 

三国干渉でロシアが恫喝

ロシアからみて、不凍港を得るために進出したい場所の一つが朝鮮半島です。

そして、そのためにはどうにか遼東半島は確保しておきたいポイントでした。そこを日本に取られたので気に食わないわけです。

とはいえ、自分が参加してもいない戦争の戦果にケチをつけるのは難しいことです。本来は。

そこでロシアは同盟相手であるフランスと、とりあえず今はケンカしたくないドイツを誘い、日本に対して【三国干渉】をやらかすのです。

「遼東半島まで取るのはやりすぎでしょ。返してあげたら?」

(そこはウチが目をつけてたところだから、お前なんかにやらないよ。イヤって言うなら俺達がまとめて相手になってやるぜ)

平たく言えば恫喝でしょう。

日本からすると、清相手でも幸運に幸運が重なってやっと勝てたのに、すぐにロシアを相手にすることは到底不可能。

そのため、せっかく手に入れた遼東半島を手放さざるを得なくなります。

何とか国際社会に認められ始めた日本。

ボロボロでもまだ残る清。

いよいよ朝鮮半島へ食指を伸ばし始めたロシア。

そして東アジアでも美味しいところをキープしたいイギリスほか欧米諸国。

これらの思惑がこの後10年間絡み合い、日露戦争へ続いていきます。

 

30行で総まとめ

とまぁ、かなり入り組んだ日清戦争。その流れを30行でマトメてみました。

3行ではなく30行……なんで、マトまってない?

①日本が、清と朝鮮へ西洋化・近代化を打診

②開国したくない両国は打診を無視

③しかし朝鮮でも開化派が出て来る

④日本でも征韓論で政府分裂(不平士族の反乱へ)

⑤江華島事件を機に朝鮮で開化派の勢力が増す

⑥ソウルで壬午の変が勃発

⑦自国民保護のため日本軍がソウルに駐屯

⑧朝鮮では攘夷・鎖国派の大院君復活を望む声が高まる

⑨閔妃の夫・高宗は改革を進める→金玉均が近代化軍の設置

⑩旧式軍がキレて壬午軍乱が勃発

⑪大院君が復権して閔妃を追い出す

⑫閔妃が清へ泣きつき、袁世凱が3,000の軍で出兵

⑬ただし清は、清仏戦争の真っ最中で1,500の兵を戻す

⑭兵が半数いなくなり、金玉均が日本に出兵を要請

⑮実は日本もそれどころじゃない(大日本帝国憲法だって未成立)

⑯金玉均が待ちきれずに甲申事変を起こす→翌年暗殺される

⑰1885年に天津条約→互いに朝鮮へ介入しない

⑱しかし清は北洋艦隊を使って日本へ威嚇

⑲北洋艦隊の戦艦「定遠」の中身を見せる余裕っぷり

⑳その船の中が意外にもボロボロ(メンテナンスの余裕なし)

㉑朝鮮で「甲午農民戦争」が勃発し、清が派兵

㉒天津条約に基づき日本がストップをかける

㉓「甲午農民戦争」は収束するも日清両軍が戦闘できる状態で待機

㉔日本軍がソウルを制圧し、日清戦争始まる

㉕清は指揮官がダメダメ

㉖ただし日本側も連戦連勝ではなく平壌攻略から先へ進めず

㉗いよいよ負けか!?というところでナゼか清が白旗

㉘黄海海戦でも日本側の勝利

㉙下関条約が結ばれる

㉚ロシアが三国干渉で日本を恫喝

かなり簡略化してまとめてみましたが、それでも学校の授業と比べると長く感じられるかもしれませんね。

受験生の方は一つずつ理解しておくと、歴史がかなりの得意ジャンルになるのでは……って、長すぎます?


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【参考】
国史大辞典「日清戦争」「日清講和条約」「三国干渉」
『世界史劇場 日清・日露戦争はこうして起こった』(→amazon
長崎事件/wikipedia

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五十嵐利休

武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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