文政十年(1827年)2月20日は徳川治済(はるさだ)の命日です。
御三卿の一つである一橋家の当主であり、よしながふみ氏の漫画『大奥』では「怪物」とされるほどの存在感。
ドラマ版でも仲間由紀恵さんが怪演を果たし、大河ドラマ『べらぼう』では生田斗真さんが演じるなど、一気に知名度が上がってきていますよね。
漫画やドラマはもちろんフィクションながら、治済の足跡と同時期の出来事が上手に絡められていて、目が離せないキャラクターになっています。
では史実ではどんな人物だったのか。その生涯を振り返ってみましょう。

徳川治済(一橋治済)/wikipediaより引用
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四男でも跡継ぎの座が巡ってきた
徳川治済は、一橋家の初代・宗尹(むねただ)の息子です。
宗尹は八代将軍・徳川吉宗の四男ですので、治済は吉宗の孫となりますね。

徳川吉宗/wikipediaより引用
四男だった父は、順当ならばどこかの大名へ養子入りしていたのでしょう。
ところが、兄たちが先に他家の養子となっていたため、一橋家自体の跡を継ぐ人が他におらず、治済へ順番が回ってきました。
「自分の家を後回しにしてよその養子になる」というのは不思議なものですが、これは御三卿という家自体がそういう目的で設置されたものだから仕方ありません。
大ざっぱにいうと
◆徳川宗家(将軍家)や御三家、あるいは他の松平諸家に跡継ぎがいなくなった際に備え、ストックとなる男子を用意しておくのが【御三卿】
となります。
御三卿は吉宗の息子や孫を始祖としています。
ゆえに、よその大名家から養子を迎えるよりは、確実に徳川宗家の血が残る。
そんなこんなで一橋家を継いだ治済は、宗家の跡継ぎが途絶えた場合は充分に将軍の位を狙える位置にあり、そしてそのことが、おそらく治済の行動を決めるベースになっていたと思われます。
しかし、そうは簡単に事は運びませんでした。
八代から十代までの将軍は、徳川吉宗→徳川家重→徳川家治の順で「それぞれ親から息子へ」と継承。
家治が将軍になった時点で、治済自身が将軍になる可能性はほぼなくなってしまいました。
徳川家基の死で状況が一変
風向きがガラッと変わったのは安永8年(1779年)2月24日のことです。
10代将軍・徳川家治にとって唯一の男子だった徳川家基が若くして亡くなってしまいました。
このとき家治は42歳。
当時の平均寿命を考えれば、あと数年でお迎えが来てしまいます。

徳川家治/wikipediaより引用
新たに子供を授かったとしても、家治が亡くなったら、幼い将軍が立つことになってしまうでしょう。
かつて七代・徳川家継が幼くして位についたとき、熾烈な権力争いによって幕府の内部が乱れたことは、皆が覚えていました。
かといって、当御三家や御三卿の当主が直接家治の養子になり、次期将軍になるというのもなかなか不格好な話です。
同世代間の将軍位継承というのは、異母兄弟である四代・徳川家綱→五代・徳川綱吉の例がありますが、その際は綱吉に男子がいなかったため、やはり後に混乱を招いています。
大雑把にまとめると
「家治の跡継ぎは、御三家・御三卿の中で、今後、男子をより多く授かる可能性がある若い人」
が理想的だったのです。
そこで白羽の矢が立ったのが、治済の息子である徳川家斉(いえなり)でした。
息子・家斉の父として権勢を振るいたい治済
家斉は8歳で家治の養子となり、家治死去の後、十一代将軍となります。
そして治済は「将軍の父」として、実権を握ろうとするわけです。
特に治済が気にしたのは、「将軍の父であり実務も十分に行っている自分が臣下扱いされるのは解せぬ」ということでした。
そこで「ワシのことを大御所と呼ぶように」と幕閣たちに要求したのですが、【寛政の改革】を実行中の老中首座・松平定信が大反対します。
ただ単に政敵だからという理由ではなく、上方での事件が絡んでいました。
当時の天皇は、第119代・光格天皇です。

光格天皇/wikipediaより引用
先代の後桃園天皇に嫡子がいなかったため、親王家から養子入りして、即位したお方です。
「父よりも息子が上の位になる」こと、さらに「禁中並公家諸法度により、親王は摂関家よりも下の位である」ことによって「天皇の父が摂関家よりも下の序列になってしまう」という事態を引き起こしました。
光格天皇はこれを不服とし、実父である典仁親王に「太上天皇」の尊号を贈ろうとします。いわゆる「上皇」のことです。
これに反対したのも、松平定信でした。
「一度も皇位についたことのない方が、上皇と呼ばれるようになるのはおかしい」という、これはこれでまっとうな理由です。
定信の反対に対し、朝廷では「徳川さんのほうではそうなっとりますけど、昔はそういうこともあったんどすえ」(超訳)と故事を引き出してきて反論。
過去に複数例あるものですから、朝廷からすればきちんとした反証でした。
尊号一件 最後は鷹司と定信で手打ちの調整
しかし、定信はあくまで言い張ります。
「過去の例は南北朝の動乱時にやむなくしたこと。
今は今です。徳川の定めた掟に忠実でいただかないと困ります!」
と。
朝廷からすれば「東夷(あずまえびす)がなんと図々しい!」としか思えなかったことでしょう。
この静かな戦いは三年経っても埒が明かず、光格天皇はついに辛抱を切らし、勝手に会議を開いてしまいます。
「幕府の意向なんぞどうでもいいわ!
公家の中で、父上に尊号を贈るのに反対な者はおるか!」
そして圧倒的な賛成を得て、典仁親王を上皇としてしまったのです。
「このままでは幕府と朝廷の全面対決になってしまう……」
そんな風に憂慮した公家が、典仁親王の弟であり、光格天皇にとっては叔父でもある鷹司輔平(たかつかさ・すけひら)でした。
輔平はどうにか幕府に渡りをつけて、事を穏便に収めるべく、定信に連絡します。
「私から陛下に上皇宣下を取り下げるようお話しますので、親王殿下の待遇をもうちょっと良くしてもらえませんか」
しかし、定信からの返信はつれないものでした。
「幕府が政治を預かっているのですから、皇室や公家の処分を決めるのも幕府です」
結局、上皇宣下の取り消し・何人かの公家と勤皇家の学者に免職・捕縛するかわりに、典仁親王の領地を増やすことで、この事件は解決となりました。
この一連の騒動を【尊号一件】といいます。テストに出るかも……ということで話を治済に戻しましょう。
定信が追い出された真の理由
「例え朝廷や皇族であっても、敬称をつける決まりに例外はない!!」
尊号一件でそう強調してしまった定信は、当然ながら治済を「大御所」と呼ぶわけにもいかなくなってしまいました。
もしここで「どうぞどうぞ」と言ってしまったら、朝廷から「お身内には随分優しいですなあ」と言われてしまいます。
そんなわけで定信は「大御所というのは将軍位に就かれていた方が名乗るものですから、治済様には当てはまりません」と言い続けることになります。

松平定信/wikipediaより引用
結果、治済と家斉を完全に敵に回してしまった定信は、幕府の中枢から追われてしまいました。
「白河の 魚の清きに 住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」
なんて狂歌があるくらい、寛政の改革も成功していたとは言いがたかったですしね。
定信は白河藩主としては成功を収めているので、領民にとってはよかったかもしれませんけれど、いかんせん規模の大きな政策立案には向いてなかったということでしょう。
暗躍する治済 圧を受ける家斉
憎き政敵を追い落とした治済は、その後も亡くなるまで豪奢な生活を送りました。
おそらく政治へ大いに口を出し、多大な影響を与えているはずなのに、具体的な逸話がはっきり伝わってこないあたりが、何とも不気味で「怪物」と言われるだけありますよね。
徳川治済の息子である11代将軍・徳川家斉といえば、子沢山な将軍としても有名です。
記録にあるだけで、抱えた側室の数は16人、生まれた子供はなんと55人(53人説も)!
治済から見ると孫に当たりますが、よしながふみ氏の漫画版『大奥』では「豚のように生まれる家斉の子」という、実にひどい台詞で表現されていました。
さすがに現実での治済はそこまでではなかった……と思いたいところ。

徳川家斉/wikipediaより引用
そのうち無事に育ったのは28人でした。
それでも養子先や嫁入り先を見つけるために(主に幕閣の)散々な苦労があり、タダで送り出すわけにもいかないので持参金その他諸々に費用がかさみ、江戸幕府のお財布事情がさらに怪しくなっていきます。
家斉もその辺の事情を知っていたはずですが、それほど漁色にふけったのも、父に逆らえないストレスからだったのかもしれません。
松平定信もこの件に関しては懸念を抱き、大奥泊まりの回数などにも口を出していたとか。
それによって余計に家斉の反感も買っていたと思われます。
定信は禁欲的な人でもありましたので、家斉の気持ちが理解できなかったのかもしれません。
家斉は寛政の改革中に「あまり大名たちに負担をかけないように」と言える人でもあるから、将来の懸念について話をしていれば敵対しなかった可能性もあるんですけどね。
もしも家斉が定信と敵対しなかったら、先に追い落とされたのは治済の方だったかも……。
定信が失脚した後も、改革に携わっていた幕閣の一部は”寛政の遺老”と呼ばれて用いられていましたので。
家斉は一生のうちに数回風邪を引いたくらいで、めちゃくちゃ頑丈な人でした。
外出がままならないのは将軍やお殿様の定めとはいえ、政治すら自分の意志を出せないというのは、相当窮屈に感じていたでしょう。
治済からも「子供をたくさん作って、跡継ぎはもちろん徳川の血筋全体をウチで固めるように」とも言われていたようですが……。
「娯楽が少ないと夜頑張る」というのは、現代のあっちこっちの国でも同じ。
家斉がただの女好きのバカ殿だったわけではない……と思いたいところです。
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【参考】
山内昌之『将軍の世紀 上巻 パクス・トクガワナを築いた家康の戦略から遊王・家斉の爛熟まで』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典





