ムスタファ・ケマル・アタテュルク/wikipediaより引用

アジア・中東 その日、歴史が動いた

親日トルコの歴史(オスマン帝国)を学ぼう!建国の父・アタテュルクに注目だ

更新日:

東洋と西洋が出会う国トルコ。
親日国家として我々日本人には馴染み深い一方で、「その歴史は?」となるとほとんどの方があまり存じ上げない気がします。

1881年(明治十四年)3月12日は、”トルコ建国の父”と言われるムスタファ・ケマル・アタテュルクが誕生したとされる日。

本稿では、トルコの歴史(オスマン帝国)アタテュルクについて見てみていきたいと思います。

 

文明の交差点アナトリア半島

アナトリア半島は別名小アジアともいい、四大文明には含まれていないながら、古くから文明が存在していた土地でした。

地図で見ると、日本からは中国を突っ切ってひたすら西にいったところにあります。
緯度的には台湾あたりからまっすぐ西と言ったほうが正しいですかね。

地図か衛生写真を見ていただくとわかりやすいかと思いますが、ここは各文明の交差点ともいえる場所です。

南にはメソポタミア・エジプト。
東にはインドや中国。
北西にはヨーロッパ。

歴史的に見て、最も多くの文化と同時に触れてきた土地かもしれません。
旅行会社などでよく「文化の混ざる国」というような表現をされているのはこのためでしょうね。

 

スポンサーリンク

世界初の鉄文化ヒッタイトもここから

紀元前3000年には映画や遺跡で有名なトロイが築かれ、同じく紀元前1500年前にはヒッタイト文明が栄えていました。

最初の鉄器文化を生み出した文明とも言われ、精錬技術は門外不出。
ヒッタイトが滅亡するまで周辺民族は鉄の利用方法がわからなかったとか。

もしヒッタイトがずっと健在だったら、他国に鉄器が普及するのはもっと後で、その後の技術にも多大な影響を与えていたでしょう。

ボアズキョイ・ライオンの門/photo by Bernard Gagnon wikipediaより引用

時代を1000年ほど飛ばします。

マケドニアのアレクサンドロス大王が登場した紀元前4世紀、彼の東方遠征によってアナトリア半島は広大な帝国に組み込まれ、大王の死後ペルシアの支配下に置かれます。
さらにペルシアとローマ帝国の戦争後は、後者の一部として属州になりました。

そしてローマ帝国の分裂後は、東ローマ帝国の首都がビザンティウム(=コンスタンティノープル=現イスタンブール)になり、アナトリア半島の文化発展に大きく影響します。

 

キリスト教とイスラム教の最前線になった

しかし、イスラム帝国の台頭により、キリスト教とイスラム教の争いにおける最前線の一つにもなってしまいました。

第四回十字軍(1202年)では同じキリスト教徒に略奪されるという理不尽な目にも遭っています。

ちなみにもう一つの最前線はイベリア半島(スペイン・ポルトガル)で、こちらは一度征服された後、再びキリスト教側が盛り返した「レコンキスタ」として知られています。
アナトリア半島が現在に至るまでイスラム圏なのと比べると、同じ半島でも対極的な歴史を辿ったことになるんですね。

第四回十字軍の後はモンゴル帝国に襲撃を受け、チンギス・ハンの孫フレグによってイル・ハン国が作られました。
と言っても全てを勢力下に置けたわけではなく、小さな国が乱立した群雄割拠状態が続きます。

これをまとめ、アナトリア半島を統一し中東地域まで進出したのがオスマン帝国です。

建国は1299年、滅亡は1922年ですから、世界史の中でもかなり長く続いていた国です。
名前だけなら神聖ローマ帝国のほうが長いですけどね。名前だけなら。大事なことなので二回言いました。

 

スポンサーリンク

宗教に寛容だったオスマン帝国

もっとも、オスマン帝国の人々は記録に関して無頓着だったのか。
初期の記録が少ないので建国の年はハッキリしていないそうで。寛容だったのは宗教に関する面だけじゃなかったってことですかね。

国名は初代皇帝オスマンの名前をそのまま取られいます。
ちなみに、そのトーチャンは、日本&トルコ関係で必ず出てくるあの船名「エルトゥールル」だったりします。へぇへぇへぇ。

この頃はまだ東ローマ帝国が頑張っていましたが、オスマン帝国に首都コンスタンティノープルを占領されてついに滅亡。

東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル/wikipediaより引用

オスマン帝国はさらにギリシャやハンガリーなどヨーロッパ方面、シリアやエジプトなどの中東方面、さらにアフリカの地中海沿岸部へ勢力を広げていきました。
東ローマ帝国+αをぶん捕った感じですね。

オスマン帝国が台頭し始めた14~15世紀のヨーロッパ諸国ではペストが大流行、人口が激減=兵になれる成人男性が激減していたという点も大きそうです。

もちろんオスマン帝国とその先の中東諸国でもペストの発症はあったそうですが、なぜかヨーロッパほどの打撃を受けていないようです。

一説には、元々ペスト菌が生息していたため抗体があったのでは?
といわれていますが、今のところ確たる証拠はありません。

オスマン帝国の最大版図/wikipediaより引用

そして16世紀、スレイマン1世(大帝)の時代にオスマン帝国は最盛期を迎えますが、彼の死と同時に大きな転換期を迎えました。

スレイマン1世までは戦といえば皇帝のお出ましがセオリーだったのに、戦どころか政治ですら皇帝が先頭に立つことがなくなったのです。
宰相やその他支配階級へ特権が分散されていったためで、この傾向は18世紀まで続きます。

当然皇帝の権力はどんどん弱まっていきますが、それを盛り返せないままヨーロッパ諸国との戦争に負け続けて領土が減り、帝国に陰りが見え始めました。

代わって世界史の表舞台に出てきたのがピョートル1世率いるロシア帝国と、ハプスブルク家が治めるオーストリアですが、その辺の話はまたおいおい。

 

近代の帝国におされて「瀕死の病人」

その後は改革を試みる皇帝も現れたものの、軍の反対などでうまく行かず、じりじりと勢力を弱められていくことになります。

戦争に負けるわ、フランス革命の煽りを受けたギリシャやエジプトに独立されるわ。
ヨーロッパ各国からは「瀕死の病人」という散々な形容をされるほどでした。

しかし、オスマン帝国は何とかこの衰退を止めるべく動きます。

軍隊の西欧化や国家機関の新設、西欧への留学生派遣など、次々に対応策を打ち出す様子は、幕末~維新の日本とちょっと似てますね。
時期的にはオスマン帝国のほうが半世紀くらい早いんですが、もしお互いの存在を知ってたらこのあたりから協調路線を取ってたかもしれません。

ただし、これらの対策にはもちろん多額の資金が必要でして。

戦争に負けまくった国の中からそんなお金が沸いて出てくるはずもなく、ヨーロッパ諸国からの借金がかさみ始めます。このため改革は完全に成功することなく終わった上、さらにロシアとの戦争に再び負けてしまいました。

どうなるオスマン帝国!




スポンサーリンク


……という長い長い歴史を持った地域です。
これでも細かい王朝名とか国名をかなり端折っているんですが、やっぱり長かった。
いよいよ建国の父・アタテュルクの出番です。

次のページへ >



-アジア・中東, その日、歴史が動いた
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.