ムスタファ・ケマル・アタテュルク/wikipediaより引用

アジア・中東

親日トルコの歴史(オスマン帝国)を学ぼう!建国の父・アタテュルクに注目だ

2019/03/12

東洋と西洋が出会う国トルコ。

親日国家として我々日本人には馴染み深い一方で、「その歴史は?」となるとほとんどの方があまり存じ上げない気がします。

1881年(明治十四年)3月12日は、”トルコ建国の父”と言われるムスタファ・ケマル・アタテュルクが誕生したとされる日。

本稿では、トルコの歴史(オスマン帝国)とアタテュルクについて見てみていきたいと思います。

 


文明の交差点アナトリア半島

アナトリア半島は別名小アジアともいい、四大文明には含まれていないながら、古くから文明が存在していた土地でした。

地図で見ると、日本からは中国を突っ切ってひたすら西にいったところにあります。
緯度的には台湾あたりからまっすぐ西と言ったほうが正しいですかね。

地図か衛生写真を見ていただくとわかりやすいかと思いますが、ここは各文明の交差点ともいえる場所です。

南にはメソポタミア・エジプト。
東にはインドや中国。
北西にはヨーロッパ。

歴史的に見て、最も多くの文化と同時に触れてきた土地かもしれません。
旅行会社などでよく「文化の混ざる国」というような表現をされているのはこのためでしょうね。

 


世界初の鉄文化ヒッタイトもここから

紀元前3000年には映画や遺跡で有名なトロイが築かれ、同じく紀元前1500年前にはヒッタイト文明が栄えていました。

最初の鉄器文化を生み出した文明とも言われ、精錬技術は門外不出。
ヒッタイトが滅亡するまで周辺民族は鉄の利用方法がわからなかったとか。

もしヒッタイトがずっと健在だったら、他国に鉄器が普及するのはもっと後で、その後の技術にも多大な影響を与えていたでしょう。

ボアズキョイ・ライオンの門/photo by Bernard Gagnon wikipediaより引用

時代を1000年ほど飛ばします。

マケドニアのアレクサンドロス大王が登場した紀元前4世紀、彼の東方遠征によってアナトリア半島は広大な帝国に組み込まれ、大王の死後ペルシアの支配下に置かれます。
さらにペルシアとローマ帝国の戦争後は、後者の一部として属州になりました。

そしてローマ帝国の分裂後は、東ローマ帝国の首都がビザンティウム(=コンスタンティノープル=現イスタンブール)になり、アナトリア半島の文化発展に大きく影響します。

 

キリスト教とイスラム教の最前線になった

しかし、イスラム帝国の台頭により、キリスト教とイスラム教の争いにおける最前線の一つにもなってしまいました。

第四回十字軍(1202年)では同じキリスト教徒に略奪されるという理不尽な目にも遭っています。

ちなみにもう一つの最前線はイベリア半島(スペイン・ポルトガル)で、こちらは一度征服された後、再びキリスト教側が盛り返した「レコンキスタ」として知られています。
アナトリア半島が現在に至るまでイスラム圏なのと比べると、同じ半島でも対極的な歴史を辿ったことになるんですね。

第四回十字軍の後はモンゴル帝国に襲撃を受け、チンギス・ハンの孫フレグによってイル・ハン国が作られました。
と言っても全てを勢力下に置けたわけではなく、小さな国が乱立した群雄割拠状態が続きます。

これをまとめ、アナトリア半島を統一し中東地域まで進出したのがオスマン帝国です。

建国は1299年、滅亡は1922年ですから、世界史の中でもかなり長く続いていた国です。
名前だけなら神聖ローマ帝国のほうが長いですけどね。名前だけなら。大事なことなので二回言いました。

 


宗教に寛容だったオスマン帝国

もっとも、オスマン帝国の人々は記録に関して無頓着だったのか。
初期の記録が少ないので建国の年はハッキリしていないそうで。寛容だったのは宗教に関する面だけじゃなかったってことですかね。

国名は初代皇帝オスマンの名前をそのまま取られいます。
ちなみに、そのトーチャンは、日本&トルコ関係で必ず出てくるあの船名「エルトゥールル」だったりします。へぇへぇへぇ。

この頃はまだ東ローマ帝国が頑張っていましたが、オスマン帝国に首都コンスタンティノープルを占領されてついに滅亡。

東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル/wikipediaより引用

オスマン帝国はさらにギリシャやハンガリーなどヨーロッパ方面、シリアやエジプトなどの中東方面、さらにアフリカの地中海沿岸部へ勢力を広げていきました。
東ローマ帝国+αをぶん捕った感じですね。

オスマン帝国が台頭し始めた14~15世紀のヨーロッパ諸国ではペストが大流行、人口が激減=兵になれる成人男性が激減していたという点も大きそうです。

もちろんオスマン帝国とその先の中東諸国でもペストの発症はあったそうですが、なぜかヨーロッパほどの打撃を受けていないようです。

一説には、元々ペスト菌が生息していたため抗体があったのでは?
といわれていますが、今のところ確たる証拠はありません。

オスマン帝国の最大版図/wikipediaより引用

そして16世紀、スレイマン1世(大帝)の時代にオスマン帝国は最盛期を迎えますが、彼の死と同時に大きな転換期を迎えました。

スレイマン1世までは戦といえば皇帝のお出ましがセオリーだったのに、戦どころか政治ですら皇帝が先頭に立つことがなくなったのです。
宰相やその他支配階級へ特権が分散されていったためで、この傾向は18世紀まで続きます。

当然皇帝の権力はどんどん弱まっていきますが、それを盛り返せないままヨーロッパ諸国との戦争に負け続けて領土が減り、帝国に陰りが見え始めました。

代わって世界史の表舞台に出てきたのがピョートル1世率いるロシア帝国と、ハプスブルク家が治めるオーストリアですが、その辺の話はまたおいおい。

 

近代の帝国におされて「瀕死の病人」

その後は改革を試みる皇帝も現れたものの、軍の反対などでうまく行かず、じりじりと勢力を弱められていくことになります。

戦争に負けるわ、フランス革命の煽りを受けたギリシャやエジプトに独立されるわ。
ヨーロッパ各国からは「瀕死の病人」という散々な形容をされるほどでした。

しかし、オスマン帝国は何とかこの衰退を止めるべく動きます。

軍隊の西欧化や国家機関の新設、西欧への留学生派遣など、次々に対応策を打ち出す様子は、幕末~維新の日本とちょっと似てますね。
時期的にはオスマン帝国のほうが半世紀くらい早いんですが、もしお互いの存在を知ってたらこのあたりから協調路線を取ってたかもしれません。

ただし、これらの対策にはもちろん多額の資金が必要でして。

戦争に負けまくった国の中からそんなお金が沸いて出てくるはずもなく、ヨーロッパ諸国からの借金がかさみ始めます。このため改革は完全に成功することなく終わった上、さらにロシアとの戦争に再び負けてしまいました。

どうなるオスマン帝国!

……という長い長い歴史を持った地域です。
これでも細かい王朝名とか国名をかなり端折っているんですが、やっぱり長かった。
いよいよ建国の父・アタテュルクの出番です。

アタテュルクたつ!

ムスタファ・ケマル・アタテュルクは現在のギリシャ・テッサロニキ(当時はオスマン帝国領)で生まれました。

彼はケマル・パシャともいわれます。
ケマルは「完全な」という形容詞で、パシャはオスマン帝国(トルコ)のエライ人に与えられる称号。

つまり、個人のお名前としてはムスタファ・アタテュルクということになります。トルコ関連でやたらと「パシャ」がつく人が多いのは称号だからなんですね。

さらにこの”アタテュルク”も政界に入ってから贈られたものなのですが、こまけぇこたぁいってことで。

当初は軍人としての道を進み、オスマン帝国が参加した数々の戦争に赴きます。

第一次世界大戦で、オスマン帝国は同盟側(ドイツ・オーストリア・ブルガリア)につきました。

アタテュルクも連合国(フランス・イギリス・ロシア等)相手に戦い、特に英仏軍の侵攻を食い止めたガリポリの戦いで「英雄」と呼ばれるようになります。

彼は軍事的な才能だけでなく学問のほうも達者だったためか、第一次世界大戦中の1917年には皇太子ワフデッティン(後のメフメト6世)がドイツを訪問する際の随行員にも選ばれ、親交を深めていました。

メフメト6世もアタテュルクのことは信頼していたようで、「皇帝の副官」を意味する称号を贈られたそうです。

前列左がアタテュルク・第5軍での参謀研修時代(1907年撮影)/wikipediaより引用

しかし、いつの時代も個人の感情を国家や政治より優先させることはできません。
まして「瀕死の病人」にそんな温情を持つ余裕はありませんでした。

第一次世界大戦終結時の敗戦国側になってしまったことでさらに弱体化してしまったオスマン帝国は、清のようにじりじりと国土を削り取られていきます。

抵抗する人々もいましたが、バラバラの状態では国を取り戻すことは不可能。
放置しておけば国家どころか民族存亡の危機へ陥っていたでしょう。

そうならなかったのは、このギリギリのタイミングでトルコ革命が起こり、帝政や数々の制度が廃止されたからです。
その中心にいたのがアタテュルクでした。

 

帝国の英雄から一転、革命のリーダーに

当初アタテュルクは抵抗側を取り締まるためオスマン帝国から派遣されました。

が、彼は腹の中で既に皇帝を見限っていたため、抵抗派をまとめて一丸となることを訴えます。
「英雄」が味方になってくれるのですから、人々はさぞ心強く感じたことでしょう。

この間に首都イスタンブールまで連合軍に占領されてしまい、アタテュルクらはアンカラで議会を開き、抵抗運動政権を作るのです。

そしてアナトリア半島の東部・南部・西部各方面で少しずつ開放戦をスタート。
すべての戦闘に勝利したわけではありませんでしたが、最終的にはほぼ全ての国土を取り戻すことができました。

この間皇帝を始めとしたオスマン帝国政府は保身のみに走り、抵抗運動政権と合流する素振りすら見せなかったため、完全に民衆の心は後者についてしまいます。
そしてメフメト6世は帝位から追われ亡命、ここに600年続いたオスマン帝国は滅亡を迎えたのでした。

 

好きな自国の英雄でダントツ

帝国から共和国制へ移行したトルコで、アタテュルクは初代大統領に就任し、目の回るような勢いで改革を推し進めていきました。

主に政教分離と世俗主義の徹底や男女平等、トルコ語や文字の整備、姓の創設などです。

政教分離についてはアタテュルクが大の酒好きだったため、「飲酒ダメ絶対!!」のイスラム教方面から文句を言われないようにしたかったという説もあります。
現在もトルコはイスラム圏にも関わらず飲酒に寛容なのはこのためだそうで。

これらの改革はあまりにも急進的だったため反抗や暗殺未遂なども起きましたが、その度にアタテュルクは反対派を排除して改革を続けました。

この点に対し「独裁者」とされることもあるものの、アタテュルクの改革のおかげで国土の完全な植民地化を防ぎ、第二次大戦ではほぼ中立を貫くことができたので、現在では「良い独裁者」「建国の父」として見ている人が多いようです。

どこの国でも「好きな自国の英雄は?」というと何人か候補が上がってきますが、トルコの場合はムスタファ・ケマル・アタテュルクがダントツだとか。

日本だと……うーん、ちょっと当てはまりそうな人が見当たりませんね。人気の高さで言えば信長でしょうか?でも嫌いな人も多いですからねえ。

 

政教分離が今も浸透している

アタテュルクの掲げた方針の中でも、政教分離は特に残っているものの一つだと思われます。

不明瞭な記憶で恐縮ですが、昔何かの番組で、トルコ(イスラム圏のどっかだったかも)でキリスト教徒の方とイスラム教徒の方がルームシェアしているという話を見たことがあるのです。

当然ラマダーンにイスラム教徒の方は断食し、キリスト教徒の方はその横で普通に食事をするとか。

日本人からすると「嫌がらせか!」とツッコミたくなるところながら、本人達は「お互いの信仰を守っているだけだから気にしてない」と涼しい顔でした。そりゃそうだけどすげえ話だ。

世界中でこういう相互理解と尊重が当たり前になったら、多くの戦争がなくなるのかもしれませんね。

【参考】
ムスタファ・ケマル・アタテュルク/wikipedia

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-アジア・中東
-

右クリックのご使用はできません
目次