織田秀信/wikipediaより引用

織田家 その日、歴史が動いた

三法師(信長の孫)こと織田秀信は「清須会議」の後どう過ごしたか?

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慶長十年(1605年)5月8日は、織田信長の孫・織田秀信が”公的に”亡くなった日です。

何でこんなビミョーな言い方になるのかはおいおい説明するとしまして、おそらく多くの読者様がこう思っているはず。

「信長の孫か……というか、誰?」

と、疑問に思うのも無理はありません。
この方は、幼名の方が圧倒的に有名な人物です。

小さいときは「三法師」と名乗っていました。

そう、清須会議で豊臣秀吉に担ぎ上げられた、あの三法師であり、織田信忠の息子なんですね。
信忠が嫡男で跡継ぎで三法師は嫡孫であり、元服してから「織田秀信」になりました。

織田家の通字である「信」より「秀」が先に来ているあたりに秀吉の陰謀が感じられるのは気のせいでしょうか。

これが「信秀」ですと、信長のトーチャン・織田信秀と被ってしまう。
名前ひとつとっても、彼が立たされた微妙なポジションがにじみ出ていますね。

 

3歳で偉大な祖父と父を亡くす

生まれたのが天正八年(1580年)ですので、本能寺の変が起きたときは数え歳でわずか3歳。
当然、清須会議のときも3歳です。

物心がつくつかないどころの話ではありません。
ただしそのおかげで京都近辺には行っておらず、岐阜城にいたおかげで助かりました。

が、そのままで済むはずもなく、織田家の継承問題によって知らず知らずのうちに渦中の人となります。

そして清須会議により「跡継ぎは三法師様!」と秀吉にプッシュされたため、3歳にして一家の主となりました。
当然、実務はできませんので、当分の間は堀秀政という信長の側近を務めていた人物に後見されています。

このときに限らず、秀信には何か不思議な魅力があったようで、たびたび祖父や親戚筋だけでなく土地の人にまで助けられています。

また、秀吉の政争相手であり三法師にとっては叔父になる織田信孝(信長の三男)によって、「お前岐阜城にしばらくいろ」と言われたため、後見だけでなく叔父さんの見張りつき生活を余儀なくされました。
すぐに秀吉が「三法師様を出せ!!」と言って兵まで繰り出したので束の間のことでしたけども。

かくして一度は秀吉の下に行き、賤ヶ岳の戦い後に柴田勝家と信孝が自害した後は、もう一人の叔父・織田信雄(信長の次男)の後押しを得ました。

ただし、実際に身を寄せたのは親族の誰でもなく、「米五郎左」こと丹羽長秀のところだったりします。

天正十六年(1588年)には岐阜城で元服したとされ、この幼児は年齢一ケタのうちに一体何度引越しをしたのか?と考えると、哀れになってきます(´・ω・`)

 

引っ越し? たらい回し? ようやく岐阜城で元服

三法師こと織田秀信は元服と同時に従四位下・侍従という位につきました。

世間的にはエリートコースであり、この2年後の1590年にはわずか11歳で小田原征伐に参加したということになっています。
さすがに11歳で参加は怪しくないか?という見方もありますが、どのみち人生凝縮されすぎなことには変わりないでしょう。

それは領地に関しても同じことで、12歳のときに岐阜13万石の大名になっています。

前領主だった秀吉の義理の息子が亡くなってしまったからなのですが、秀信が領主になると決まった途端、斉藤家(道三の家)や土岐家(道三に下克上された家)の旧臣・縁者や、名のある剣豪などがわらわらと集まってきたそうです。

イラスト:富永商太

歳が歳ですから実績はまだ皆無に等しいながら、信長の嫡孫であることが多くの人を集めたのでしょう。

それを本人も自覚していたのか、やがて実務を執るようになってからは、祖父の政策のいいとこどり+寛容さで善政を布いていたようです。
特に宗教については寛大で、自らはキリスト教に傾倒しつつも、寺院の保護も積極的に行っていました。この若様デキ過ぎ。

 

文禄の役でも渡海している

武働きも怠りなく、その後の朝鮮の役では前半戦にあたる文禄の役(1592年)で渡海しています。

朝鮮の役では水夫や兵の病死や兵糧不足、慣れない土地での過労や寒さで身分を問わず多くの人が亡くなっていますが、秀信は無事帰ってくることができました。

帰国後は従三位・中納言に昇進。
正室も迎えて名実共に大人になります。

その後も朝鮮からの使者に立ち会ったり、秀次のお供をしたり、信長の孫ということを笠に着ることなく、地道・誠実に務めていたようです。

その一方で「衣服については派手好きだった」ともいわれているので、祖父・信長と父・信忠のいいところをうまく受け継いでいたのでしょうか。
派手なのがいいかどうかはさておいて。

 

関ヶ原では西軍についてしまい25歳で死す?

秀吉の死後は関ヶ原の戦いを予見していた節があり、前年から岐阜城で戦支度をしていたらしき動きが記録されています。

当初は会津征伐に参加するつもりだったらしいのですが、支度が間に合わず遅刻。
その間に石田三成から美濃・尾張をもらうことを条件に西軍についてしまいました。

これにより、美濃の諸勢力も西軍になり、そのために池田輝政・福島正則らと戦うことになります。

ちょうど20歳になった秀信は、自ら出陣して迎え撃つも、野戦であえなく敗北。
岐阜城での籠城戦に持ち込んだ後は、関が原本戦の20日ほど前に開城となりました(岐阜城の戦い)。

本当は異母弟・秀則と共に切腹するつもりだったようですが、これは信長の乳母兄弟の息子である輝政の説得で思いとどまったとか。

戦いぶりについては正則からも「さすがは信長様の孫」と賞賛されていたようなので、その名に恥じない采配だったのでしょう。

福島正則/Wikipediaより引用

正則はさらに「俺の功績をチャラにしてもいいから、秀信を助けてやって欲しい」とまで言っていました。
家康もそれを容れて、一命を助けています。

 

信長の名前のせいで受け入れを拒まれて

命が助かっても、その後の秀信は穏やかに暮らすことはできませんでした。

剃髪し、異心のないことを示すため高野山へ向かったのですが、信長がかつて高野山とも戦ったことがあるため「アイツの孫? えーやだー」(※イメージです)と言われて、しばらく入山できなかったのです。

一度は無事山へ入れたものの、周囲の視線からかそれとも他の理由からか、五年後には自ら山を下りて麓で細々と暮らすようになりました。
と、それも束の間、下山からわずか20日程度で秀信は亡くなってしまいます。

この「下山した日」を高野山側では秀信の命日として扱っているので、冒頭では「公的な命日」とさせていただきました。

実際に亡くなったのは27日だったといわれていますが、生存説や「江戸時代に陸奥棚倉1万石で大名に服した」説もあるので、はっきりわかっていません。

高野山側の記録が正しければ、秀信の享年は26。
英雄の孫、そして良き領主には早すぎる死でした。

 

ハンパじゃないプレッシャーの下で頑張ったほうでは?

病気になったから下山したとも考えられますが、頭を丸めて山に入ったのですから生活は質素なものだったでしょうし、伝染病が蔓延していたとも思えませんから、もしかすると自害だった可能性もありますね。

本来は、岐阜城開城の際に腹を切るつもりだったのですから、ありえなくはないでしょう。

秀信については岐阜城開城の件が原因で「無能」だの「遊びほうけていた」だのとけなされることもあるようですが、家臣はよくまとまっていたようですし、自ら出馬していますし、そこは「勝敗は時の運」というものですよね。

しかも秀信は周囲から
「信長の孫なら優れた能力があるに違いない(でも乱暴は勘弁)」
という目で見られていたことは確実ですから、かなりのプレッシャーもあったことでしょう。

そういう状態で堕落や明らかな過失をすることなく、きちんと自分の役目を成し遂げたということは、もっと評価されても良いのではないでしょうか。

まぁ、清州会議で
【秀吉が担ぎ上げた子供】
という印象があまりに強すぎるので、なかなか難しいですかね。

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【参考】
国史大辞典
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon link
織田秀信/wikipedia

 



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