日比谷焼打事件で焼打ちにあった施設の一部/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代 ゴールデンカムイ特集 その日、歴史が動いた

日比谷焼打事件で戒厳令が発動! 数万人の集会が暴徒化してタイホ者2,000人

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戦争は「最悪の外交策」と言われます。

そもそも外交の一歩目は話し合いでですから、そりゃそうですよね。
人命も物資も何もかも損失するような真似、誰だって、どこの国だって、やりたくないに決まっています。

しかし、近代においてはやむをえず行うこともままありました。

「自衛戦争」というタイプのものがそうです。
書いて字のごとく、自分の国を守るための戦争――防衛戦と言い換えたほうがわかりやすいでしょうか。

明治三十八年(1905年)9月5日に日比谷焼打事件が起こった遠因は、防衛戦ともいえる日露戦争でした。

「日本とロシアの戦争で、大陸まで行ってたのになんで自衛なの?」
と思われるかもしれませんが、当時のややこしい国際関係を振り返ってみましょう。

 

ロシアが朝鮮半島へ南下した次は……

アヘン戦争で負けてしまった後、大国だった清はボロボロもいいところ。
日清戦争では後進国だったはずの日本にも負けてしまいます。

「西洋がナンボのもんじゃい! 清帝国バンザイ!!」と味方になってくれる人々(義和団)もいましたがあっさり鎮圧され、ますます清は弱体化していってしまいました。

ここへ食指を伸ばした国の中に、ロシアも入っていたのです。

ロシアは何百年も前から真冬でも使える「不凍港」を求めていました。
真冬になると、ロシアの主な港周辺の海はほとんど凍ってしまって使い物にならないからです。

そんな折、国土を南で接する清が弱体化してるんですから、ロシアにとってはこの上ないチャンスであり、その後、衝突するのは当時建国したばかりの大韓帝国(今の朝鮮半島全域)と日本でした。

朝鮮半島はずっと清の属国だったため、単独で戦争をしたことがありません。

頼みの清も今となってはほぼ無力。
となると、ロシアの南下を防げる可能性を持っているのは日本しかありませんでした。

もちろん日本は日本で大陸での権益を守るためでもありましたが、ここでもし朝鮮半島~中国北東部までがロシアの勢力圏になってしまうと、自分のところも危うくなってしまいます。

というわけで、日露戦争は『本格的にやられる前に食い止めるしかない……』という一面もあったのです。

 

果実をいただき講和へ!

もっとも、この頃の日本政府も、ロシア相手に真正面からぶつかって、完全に勝てるとは思っていません。

「こっちが一番有利になったタイミングで、賠償金と領地もらって講和にしよう!」
という目論見を持ち、打ち合わせも済んでいました。

そこにあの有名な日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊(※ただし地球を半周した後でギリギリボロボロ)に勝ったのですから、これほどいいタイミングはありません。

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ロシアからすれば
『えー、ウチまだ余力あるからチミのところなんてぶっ潰せるんだけどなー』
というスタンスでしたが。

ここで仲裁に入ったのがアメリカでした。

「うちが間に入るからさ、もう仲良くしなよ」
と見せかけて、アメリカはアメリカで思惑があったのですね。ほんま、どこも真っ黒やで。

なんせ当時の【中国~朝鮮半島】は競売に出されているも同然ですから、アメリカだって『遅れてなるものか!』となりますよね。

そこで講和条約を結ぶ場所をアメリカのポーツマスとし、日露双方の代表が集まって調印が行われました。

条件がとても多いので割愛しますが、いつものように超訳しますと
【ロシアは極東地域から一旦手を引いて、極東側の領土を一部日本にあげてね! 日本は一部地域だけ権益を認める! 以上!!】
というものでした。

一番大切な賠償金は「やーなこった」と払ってもらえません。
そりゃあロシアは、やろうと思えばもう一回戦できるというスタンスですから払う気はありませんな。

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数万人が日比谷公園へ集結 首相官邸等を襲撃

日本政府の意向はこんな感じです。

「こっちが有利な間に講和できたし、金のために戦争したわけじゃなんだからいいじゃん」

しかし、実際に家族から兵士を送り出した国民側は納得できません。

「せめて金ぶんどらないと、死んだ皆が浮かばれねえだろ!!」と激怒する人が大多数。

海の向こうで条約が結ばれている頃、東京・日比谷公園では講和反対の大集会が行われたのです。

数万人が集まった/wikipediaより引用

当初は「講和条約に反対意見をまとめて政府に提出しよう」という穏やかな会だったのが、警官隊が入ってきてから一気に急変。

警官隊が「君達落ち着きなさい、もう決まったことなんだから大人しく引き下がるように!」となだめると、余計に民衆の心に火がついてしまうのです。

結果、数万人が、首相官邸や、政府に好意的な記事を書いていた国民新聞社を襲撃し、警察署や交番、電車に火を放つなどの大騒ぎになりました。

しかも仲介したアメリカにまで矛先が向き、米国公使館や同国の牧師がいる教会まで襲われ大混乱。
ヘタしたらアメリカと戦争になるんじゃないの?というような混乱ぶりでした。

それでも関東大震災のときにアメリカは、一番多くの義捐金を出してくれているのですから、ありがたいというかなんというか。

無政府状態に陥った東京には戒厳令(一時的に軍隊が統治すること)が出されました。

2,000人以上もの人が検挙され、ようやくこの暴動も鎮火。
死者17名、負傷者500名以上という大きな騒動になったのです。

 

そして大正デモクラシーへ

ちなみに、こうした集会から暴動に陥ったのは東京だけではありません。

神戸や横浜でも似たような事件が起きています。

戦争のしわ寄せで生活が困窮していたとはいえ、100年ちょっと前のこととは思えませんね。

暴動は同年秋には収まりましたが、講和反対の世論はなかなかなくなりませんでした。
そのため当時の桂内閣は総辞職し、新たな西園寺内閣が作られます。

しかし「市民が集まれば政府を動かすことができる」という経験は、民衆にも政治家にも大きな余波を残しました。

ちょっと前までは江戸時代で「将軍様の仰ることは絶対!(でも悪口言うくらいは聞かなかったことにしてやる)」というような風潮でしたから、余計に自信がついたのかもしれません。

そして、この動きが後々大正デモクラシーなどの民主主義運動に繋がっていくのでした。

吉野作造/wikipediaより引用

長月 七紀・記

【参考】
世界大百科事典
国史大辞典
日比谷焼打事件/wikipedia

 



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