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【ジョージ三世】
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姫たちの将来もなかなかキッツいことになってます
ジョージ三世は、王女たちの嫁ぎ先を厳選しました。
彼の脳裏には苦い記憶がありました。
妹キャロライン・マティルダ・オブ・ウェールズ。
彼女は、嫁ぎ先のデンマークで侍医と密通し、失脚させられるという大スキャンダルを起こしてしまいます。
「妹のような恥さらしになってはならん」
父としてこの目の黒いうちに決めてやろうと考えた、その結果、娘たちは……。
シャーロット:ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世。ハッピーエンド
オーガスタ:嫁ぎ先を厳選し過ぎて適齢期を逃し、生涯独身
エリザベス:イケメンのオーストリア将校に一目惚れ、反対を押し切って勝手に結婚。「ありのままの姿見せるのよ~」とレリゴー♪に成功した
メアリー:恋をした男性と結婚できないまま、相手は戦死してしまう。のちに従兄と結婚
ソフィア:一生独身。兄アーネストと近親相姦関係にあったとの噂あり。家臣と隠し子を作ったという説も
アミーリア:生涯独身。家臣と密通説もある
これまた、なかなか大変なことになっています。
皇太子ジョージは2つの法を犯してしまう
ジョージ三世は質素で庶民的な趣味を愛していました。
素朴な趣味を持つ彼を人々は「農夫王」とからかいをこめて呼びましたが、この名はやがて「質素な趣味を持つ、善良ないいひと」という意味がこめられるようになります。
なにせ、皇太子のジョージはアホ丸出しのパリピです。連日連夜どんちゃん騒ぎで金を湯水のように浪費し、愛人やファッションにつぎこみました。
「あの馬鹿王子の贅沢三昧と比べたら、国王陛下はムチャクチャを善人だ……」
息子とは違い、ジョージ三世はコツコツと倹約に励んでおりました。なんとまぁよい王様なんだと、世間は思うようになったのです。
とはいえ、女遊びも贅沢も着道楽も、まだ許せる範囲でした。
1785年、皇太子ジョージは最大の愚行を犯します。
離婚歴がある未亡人、マリア・フィッツハーバート夫人と極秘入籍してしまったのです。
彼女は敬虔なカトリック教徒であり、愛人にしたいという皇太子ジョージの願いを頑としてはねのけ続けたため、皇太子ジョージが折れたのでした。
皇太子ジョージはこのとき、二つの法を犯しました。
・1701年制定 カトリック教徒との結婚を禁じた「王位継承法」
・1772年制定 25才未満の王族が君主の許可無く結婚することを禁じた「王室結婚令」
後者の「王室結婚令」は、ジョージ三世が、我が子が勝手に結婚しないように制定したものでした(2013年廃止)。
しかし皇太子もサセックス公オーガスタスもエリザベスもこれを無視して結婚しています。
結婚できないなら愛人を作ればいい、と開き直る者も多数。王子ジョージ三世の努力とは、一体何だったのでしょう……。
こうした我が子たちの度重なる愚行に精神がすり切れてしまったのか。
1788年、ジョージ三世の身に異変が起こります。
胃がもたれ、息は苦しく、視力は衰え、聴力も低下
始まりは、顎の痛みでした。
激痛は日に日に悪化し、ジョージ三世は一睡もできなくなります。
胃がもたれ、息は苦しく、視力は衰え、聴力も低下。病の苦痛に伴って精神も異常をきたしてしまいました。
うつろな目で口から泡を吹き、祖先や木々にぶつぶつと意味不明なことをつぶやき続けるジョージ三世。王妃シャーロットは怯え、侍医たちもさじを投げました。
やがて侍医のウィリスという男が、荒療治を試し始めます。
王を拘束衣で縛り、悪い体液を出すという名目でわざと脚に水疱を作りました。この治療は大変な苦痛を伴うものでした。
「おいたわしや、国王陛下。心労がたたったのでしょうか」
現在では“ポルフィリン症”とも“ヒ素中毒”との説もあるジョージ三世の病気ですが、当時は心痛のあまり狂気に陥ったのではないか、とささやかれました。
なにせ彼には、心痛の種がいくつもありました。
アメリカ独立戦争での手痛い敗北。
隣国フランスの不穏な状況。
そして、息子たちの放蕩。
国政に危機が迫って皇太子ジョージが摂政となり、ジョージ三世は回復と病状の悪化を繰り返しました。
その間にも、フランス革命、ナポレオン戦争と、イギリスは激動の時代を迎えるのですから、なんという不幸。まさに、もうやめて彼のライフはゼロよ状態です。
このときイギリスは、小ピットらの名宰相、ネルソン提督やウェリントン公といった名将の働きもあり、難しい局面を乗り切り、勝利をおさめました。
しかし、ジョージ三世と彼の家族は厳しい歳月を送ることになるのです。
王子シャーロットは看病に疲れ切りました。
こんな状況では王女たちの嫁ぎ先を探すどころではなく、何人かの王女らは独身のまま過ごすことになります。
皇太子ジョージはじめ、その他の王子たちはトラブルを引き起こし続けました。
そして1820年。
ジョージ三世は病と親不孝息子に苦しめられた長い人生を終えます。
まっとうで品行方正なイギリス王室――。
その登場は、ジョージ三世の不出来な息子二人の短い治世のあと、1837年にヴィクトリア女王が即位するまで待たねばならないのでした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
ブレンダ・ラルフ ルイス/高尾菜つこ『ダークヒストリー 図説 イギリス王室史』(→amazon)