今川義元とは? 井伊氏の命運を握った海道一の弓取り 【おんな城主直虎人物事典⑯】

 

2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』で、最も関わり深く描かれる大名家は今川氏(今川義元今川氏真)であろう。

桶狭間の戦いで織田信長に討たれた今川義元。
その跡を継ぎ、同家を滅亡に導いてしまった今川氏真。
いずれも破滅のイメージばかりが先行するが、実際は義元が「海道一の弓取り(東海道で最も強い武将)」と称されたように戦国大名として現代まで知られた実力もさることながら、将軍職にも就くことの出来る家格も備えた有力者であった。

井伊氏は、そんな今川氏の勢力範囲のもと、ときに誅殺され、ときに傘下に収められ、そしてときには御家滅亡の憂き目にも遭わされている。これは、今川氏が井伊氏の生殺与奪の権を握る上級権力者だったからだ。
いったい今川氏とはどんな大名であったのだろうか。
『おんな城主 直虎』人物事典の第16回は、今川氏の成り立ち、ならびに義元にスポットを当ててみたい。

 

将軍家を継ぐ資格も有する名門・今川氏

今川氏は、もともと足利将軍家の傍流である。
「御所(将軍家のこと)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」
と言われる、将軍継承権を持った名門であり、もしも足利氏が倒れれば今川氏が同職に就く資格を有していた(ただし、可能性は非常に低かったが)。

そんな今川氏の始まりは、足利義氏の孫である吉良国氏である。
国氏が三河国の幡豆郡今川庄(現・愛知県西尾市今川町)を与えられてから「今川」を称するようになり、更にその孫の今川範国が南北朝時代に足利尊氏の北朝方を盛り立て、駿河・遠江両国の守護となった。

今川範国の墓(福王寺)

今川範国の墓(福王寺)

 

今川範国は、別名を「足利上総介五郎入道」という。
受領名の「上総介」は、もとは吉良氏の世襲受領名でもあり、以降「五郎」は今川宗家の通称となった。
彼ら今川宗家の者たちは、井伊氏ら遠江国の武士を率いて九州の南朝勢力と戦い、一方で九州探題となった遠江守護の貞世の家系は「遠江今川家」を称することになった。※ただし、今川7代範忠が足利将軍義教から「天下一苗字」を賜ると、宗家しか「今川」を名乗れなくなり、貞世たちの家系は「堀越」と改名する

今川家系図

今川と将軍家の関わりがことのほか深いのはご理解いただけたであろう。
その今川家を確固たる地位まで押し上げたのが義元である。

 

芳菊丸が得度して栴岳承芳となり、今川宗主を引き継ぎ義元となる

義元は永正16年(1519年)、駿河・遠江両国の守護・今川氏親の五男として生まれた。※注1
幼名は芳菊丸(ほうぎくまる)。母は正室の寿桂尼(じゅけいに・中御門宣胤の娘)で、彼女にとっては3人目の息子であった。
このときすでに今川の跡継ぎは兄・氏輝と決まっていたため、家督争いが起きないよう芳菊丸は出家させられ、臨済宗の善徳寺(「善得寺」とも・現在の富士市今泉8丁目)に預けられる。
芳菊丸は7歳の頃に得度して、以降は「栴岳承芳」(せんがくしょうほう※注2と名乗り、今川譜代の重臣出身である僧侶・太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい※注3が教育係を務めたのは、おそらく戦国ファンにとっては著名な話だろう。
義元は、この太原崇孚雪斎と共に上洛も果たし、そこで学識を深めている。

風雲急を告げたのは天文5年(1536年)3月17日のことだ。
この日、氏親の長男・氏輝と次男・彦五郎(共に寿桂尼の子)が、小田原城での歌会から帰ると、なんと同じ日に急死したのである。
死因は不明で疫病説が有力。しかし、同時期に病気が流行っていたとする記録もなく、入水自殺説が流れる有様である。なんせ氏輝は24歳ながら未婚で子がおらず、これによって次なる宗主となったのが栴岳承芳こと義元であった。

義元は還俗して今川家を継ぎ、時の征夷大将軍・足利義晴から一字を承る。それは「晴」の字ではなく、畏れ多くも足利将軍家の通字「義」であった。
後に海道一の弓取りと称される、今川11代宗主・義元の誕生であった。

前途は必ずしも平穏ではなかった。直後に重臣の福嶋(くしま)氏が家督相続に反対し、義元の兄・玄広恵探(げんこうえたん)を擁して内乱となったのである。これを「花蔵の乱」といい、最終的には義元が勝って花倉城(葉梨城)は落ち、玄広恵探が瀬戸谷の普門寺で自害することになった。

花倉城の案内

花倉城の案内

 

甲相駿三国同盟を成立させた軍師・太原崇孚雪斎

宗主に就いた義元は、太原雪斎をいわゆる軍師的なポジションに取り立て、外交方針の転換が図られた。

最大の変革は、北条氏よりも武田氏を重視したことである。
甲斐・武田と駿河・今川の間で「甲駿同盟」の強化を推し進め、これにより北条との間で「河東の乱」(富士川以東の地域で合戦)を引き起こしてしまうが、最終的に太原雪斎は、今川義元・武田晴信・北条氏康の間で「甲相駿三国同盟」(俗に言う「善徳寺の会盟」)を成立させる。

雪斎もう一つの改革は、領地(駿河・遠江両国)西端を領する井伊氏を重視したことだ。
かねてから今川氏と揉めていた井伊20代宗主・直平に娘(名前は不明・ドラマでは佐名)を人質に出させ、息子・直宗に代替わりさせることで井伊氏との融和を進め、更には今川庶子家(新野氏)の娘を次期22代宗主・井伊直盛に与えたのである。
これにより、井伊氏は今川氏の家臣となった。

「寄らば大樹の陰」であり、今川の脅威から解放された井伊家は「安泰」と思われたが、一方で家臣として三河国の戦いに参加せざるを得なくなり、間もなく直宗は田原城攻めで討死してしまう。何が吉と出て、何が凶と出るか分からない戦国時代。まさにそれを象徴するような運命であった。

 

雪斎が死んで歯車が狂い始め、そして桶狭間へ……

義元をサポートしたのは、太原雪斎と母の寿桂尼であった。
二人は男女の関係にあったとする俗説があるが、僧と尼ではありえない。そればかりか寿桂尼の外交方針は北条重視であり、太原雪斎の武田重視とは大いに異なっていた。最近の研究では、「花蔵の乱」で寿桂尼が実の子の栴岳承芳(義元)ではなく、側室(福嶋氏の娘)の子・玄広恵探(今川良真)を支持していたことが判明しているほど。これは、玄広恵探の外交方針が、従来通りの北条重視であったからと考えられる。

しかしその太原が、弘治元年(1555)閏10月10日に遷化(せんげ・僧侶が死ぬこと)すると、同家の歯車が狂い始める。

長慶寺の太原雪斎の墓(中央の五輪塔(今川泰範の墓)の右の無縫塔)

長慶寺の太原雪斎の墓(中央の五輪塔(今川泰範の墓)の右の無縫塔)

今川義元が、息子の氏真に家督を譲ったのは、太原雪斎の死から約3年後の永禄元年(1558)頃と考えられている。
今川氏に壊滅的な衝撃が走るのはさらにその2年後のことだ。
この頃、駿河・遠江国は、南は太平洋に面してもとより敵はなく、北や東も「甲相駿三国同盟」の締結で脅威がなくなり、まさに後顧の憂い無い状態のまま、西(三河国)の鎮圧、及び、所領経営に集中していた。その甲斐あって義元は永禄3年(1560)5月8日に三河守に任官、それから11日後の5月19日、更に西へと軍を進める。

これが結果的に同家にとっては由々しき事態となった。
三河と尾張の国境付近・桶狭間で、義元が織田信長に討たれたのだ。ご存知、桶狭間の戦いである。

織田方では、服部小平太(一忠)が義元に膝を斬られながらも一番槍をつけ、その助太刀に入った毛利新助(良勝)が首級を挙げたと伝わる一方、今川方の井伊家には多大なる不幸が及び、22代宗主の直盛は殉死、総勢16名の有力武将が討死した。
井伊衆の編成は300人とされるので、重臣クラスの武将1人につき50人の配下を率いるとすれば、本来、将は6人で足るハズ。それが16人も亡くなったということは、次世代を担う中堅クラスの武将も討ち死にしてしまったことになるばかりか、このときの激戦では300人のほぼ全員が討死し、生き残った者も大怪我をしたという。
荷駄として参加した農民も傷つき、この敗戦で、馬や働き手が失われ、田畑は荒れていったとまでいうのだ。

この瀕死状態の井伊領を立て直したのが、女地頭・井伊直虎(当時の「地頭」は「領主」の意)だった。

今川義元仏式の墓碑(桶狭間古戦場伝承地)

今川義元仏式の墓碑(桶狭間古戦場伝承地)

 

明治9年(1876)5月建立の今川義元の墓(桶狭間古戦場伝承地)

明治9年(1876)5月建立の今川義元の墓(桶狭間古戦場伝承地)

 

各地に残る義元の首塚や墓

さて、桶狭間の戦いの後、織田信長は、清須城下の須ヶ口に今川義元の首を晒した後、10人の僧に、他の武将首と一緒に駿府へ運ばせた。

また、首を晒した場に、義元の菩提を弔うため「義元塚」(今川塚とも)を築き、同じ経を1000人の僧が一部ずつ読む法会「千部会」も執り行い、大きな卒塔婆(そとば・仏塔をかたどった縦長の木片のこと)をたてたといわれている。その後、正覚寺六世三誉上人が「今川塚供養碑」も建てた。これは民家の敷地内にあったが、平成19年(2007)11月24日、正覚寺境内に移されている。

『信長公記』より一節を引用しておこう。

【原文】十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸、同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り侯海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き侯らひし。『信長公記』

【意訳】義元の首は他の武将たちの首と一緒に、10人の僧侶たちに駿河へ運ばせた。清須の南にある須賀口(熱田に向かう街道脇)に首塚を作り、さらには弔いのために千部経も行われた。大きな卒塔婆も建てた

上記「須ヶ口の首塚」のように、今川義元には愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝承地や臨済寺(今川氏の菩提寺・静岡県静岡市葵区大岩町)の墓のほかに複数の首塚がある。

①愛知県清須市須ヶ口の「今川塚供養碑」(首塚)

②愛知県東海市高横須賀町戌亥屋敷の「今川義基墳」(墓)
今川家臣たちがこの地まで逃れ、義元の遺体を永昌寺(廃寺)に、「義元」を「義基」に変えて、こっそりと葬ったという。彼らは墓守として、この地に住み着いた。その子孫は現在、「北川」や「早川」などと名乗っているという。

③愛知県西尾市駒場町榎木島の首塚
今川義元の首は、鳴海城の開城と交換で鳴海城主・岡部元信に返還された。元信は、駿府まで首を運ぼうとしたが、途中、刈谷城の水野氏を忍者を使って攻め落城させたこともあって腐敗が激しくなり、駿府に持ち帰るのを断念して東向寺に埋めたという。

④愛知県豊川市牛久保町岸組の「義元の胴塚」
首の無い義元の遺体を今川家臣が背負って駿府に持ち帰ろうとしたが腐敗が激しく、大聖寺に葬って手水鉢を墓石としたという。今川氏真は、父・義元の三回忌をこの大聖寺で執り行っている。

今川義元の首塚(東向寺)

今川義元の首塚(東向寺)

 

今川義元の胴塚(大聖寺)

今川義元の胴塚(大聖寺)

 

敵討ちで領民に暗殺された小平太は別の小平太だった!?

徳川家康関連の三都市(岡崎市・浜松市・静岡市)のうち、浜松市だけが異なることがある。
浜松市だけが「家康公」とは呼ばずに、「家康」と呼び捨てることである。これは、徳川の遠江国侵攻時に、刑部城に籠もる浪人や、堀川城に籠もる農民を大量虐殺したことに起因する(我らの殿様は徳政令を出してくれた心優しい今川氏真であり、徳川家康は冷酷で残忍な侵略者である――という理屈)。

そんな地に、領主として赴任してきたのが、今川義元に一番槍をつけたとされる服部小平太だった。
しかし小平太は、ある日、領内を視察中に刑部の「長坂」(姫街道の三方ヶ原から気賀へ下る長い坂)で何者かによって暗殺されてしまう。言わずもがな義元の敵討ちだと考えられている。そもそも今川義元を討ったのは服部小平太ではなく毛利新助であって、しかも、領主として赴任したのは「服部小平太一忠」ではなく、「服部中小平太保次」であって、似た名の別人であった。

服部小平太の最期の地

服部小平太の最期の地

 

服部小平太の墓

服部小平太の墓

 

※注1『今川家譜略記』では永正9年生まれ、『今川家系図』には永正13年生まれとあるが、静岡市は永正16年生まれだとして、2019年の「今川義元公生誕500年祭」の準備を始めている
※注2 以前は「梅岳承芳(ばいがくしょうほう)」としていたが、名の由来が「栴檀は双葉より芳し」だとして、現在は「栴岳承芳」と考えられている
※注3 九英承菊。父は庵原城主・庵原政盛で、母は興津横山城主・興津正信の娘
※注4 「今川系図」に「爲氏輝入水、今川怨霊也」という文言がある

 

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井伊直虎の生涯まとめ】大河ドラマ『おんな城主 直虎』を史実からスッキリ解説!
①「おとわ」が次郎法師を経て井伊直虎そして祐圓尼になるまで
井伊直盛とは? 主人公・直虎の父にして桶狭間に没した悲劇の武人
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井伊直平とは? 一族の血を直虎から直政へと引き継いだ老練の将
南渓瑞聞とは? 井伊家を救った軍師的僧侶の知謀
井伊直親とは? 直虎の許婚者かつイケメン若武者が歩んだ流浪の道
小野政次とは? 井伊家との権力争いの末に勝ち取った34日間の天下
⑧井伊直親の妻・ひよ(しの)とは? そして彼女は井伊の赤鬼を送り出す
瀬戸方久とは? 今川氏真&徳川家康に取り入ったヤリ手商人
井伊直満とは? 赤鬼・井伊直政の祖父は非業の死を遂げる
小野政直とは? 井伊家乗っ取りを実行した親子の真意を考える
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奥山朝利とは? 赤鬼・井伊直政の外祖父は桶狭間と共に没落するも……
中野直由とは? 宗主代行の重責を担った井伊庶子家の筆頭家系
龍宮小僧とは? 久留女木の棚田に伝わる河童伝説
今川義元とは? 井伊氏の命運を握った海道一の弓取り
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著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 








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