薩埵峠の戦い

今川氏真(左)と武田信玄/wikipediaより引用

今川家

薩埵峠の戦い|武田軍による駿河侵攻の始まり 今川軍はどう立ち向かった?

2024/12/11

永禄11年(1568年)12月12日、今川家と武田家による【薩埵峠の戦い】がありました。

「さったとうげ」と読み、この戦いは、桶狭間で今川義元が斃れた後の同家を知る上でポイントになる戦です。

実際にはろくに戦ってないんですけど……ともかく戦局を見て参りましょう。

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すでに氏真に家督を譲っていた!?

一昔前までの今川と言えば【桶狭間の戦い】が起きた頃まで、当主は今川義元と思われていました。

しかし最近の研究では、もう嫡子の今川氏真(うじざね)に家督を譲っていたという説が有力です。

つまり【桶狭間で当主が殺され、今川家も崩壊】という、なし崩し的な展開ではなかったということになります。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

また

『今川家が滅びたのは氏真が蹴鞠にハマりすぎたアホだったから』

なんて指摘もあったりしますが、氏真は決して政治・外交・合戦のことを疎かにしていた愚人ではなかったでしょう。

父が亡くなり動揺する家臣団をとりまとめ、領国の支配強化に注力。

経済観念も悪くなく、たしかに祖母・寿桂尼の助力も大きかったですが、無難にこなしていた模様です。

大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも、途中から腹を据えて大名としての仕事に取り組む姿勢が描かれておりましたよね。

寿桂尼/wikipediaより引用

ただ、やはり運が悪かったとしかいいようがないのでしょう。

当時、敵対したのが武田信玄と松平元康(徳川家康)のダブルコンボという、もはやいじめレベルだったわけで、彼は彼なりにきちんと情勢を理解して戦おうとしています。

 


甲相駿三国同盟を破棄した信玄

さて、本題の【薩埵峠の戦い】に参りましょう。

きっかけは、家康が今川家から離反したことでした。

多くの方がご存知の通り、幼いころ織田家や今川家の人質になってた家康は、義元が生きている間は逆らうことができず、今川家の武将として信長と戦ったこともあります。

竹千代(少年期の徳川家康)と今川義元像

しかし目の上のたんこぶがいなくなれば、当然、自分の家を自分で守りたくなるというもの。

そこで信長と清洲同盟を結び、一応は独立した大名として歩んでいたのでした。

一方、これを横から見ていたのが武田信玄。

そもそも武田・今川・後北条の三家は【甲相駿三国同盟(こうそうすんさんごくどうめい)】という舌を噛みそうな名前の平和協定を結んでいました。

しかし、その同盟の中で唯一の内陸国である甲斐(現・山梨県)の武田家としては、交易や軍事その他諸々の状況からしてとにかく「海」が欲しい。

そんなタイミングで、織田&徳川からプレッシャーをかけられ、今にも瓦解しそうな今川家がいるのですから、「やばば!早くしないと小僧(家康)に分捕られてしまう!」と考えるのも無理はない話。

というか何が何でも取る気なので「徳川と協力して今川家を潰そうZE!」と家康に書き送る念の入れようでした。

 

気がつけば薩埵峠に武田軍

信玄が甲府を出たのが永禄11年(1568年)12月6日のこと。

この日、甲府の躑躅ヶ崎館を出発した武田軍は、そのまま南下し、12日には、内房(うつぶさ・静岡県富士郡芝川町内房)まで来て布陣しました。

現代の道路で約80kmの距離です。だいたい一日15kmほど進んだ計算でしょうか。

山がちな道を進む上に、当時の道路事情を考えると、かなりの速度で進んだことがうかがえます(ちなみに秀吉の中国大返しは一日30kmという恐ろしい速度で行軍)。

一方、今川氏真も重臣の庵原安房守に15,000程の兵をもたせて、薩埵峠に向かわせました。

薩埵峠から描かれた 歌川広重「東海道五十三次・由比」/wikipediaより引用

甲斐から駿河へ攻め込むなら、薩埵峠付近を必ず通る――そこで防ぐのだ。

そんな決意をする一方で、同時に小倉資久や岡部直規も出陣させ、さらには同盟相手で嫁の実家である北条氏康・北条氏政らにも援軍を要請しました。

加えて、自らも出陣するなど行動を起こし、きちんと総大将としての覚悟はあったワケです。

 

先陣を命じた部下にいきなり裏切られ

氏真からやる気を感じるのは、すぐ背後に近い清見寺というところまで自分も行っていることでしょう。

ここは義元の軍師だった太原雪斎(たいげんせっさい)が住職を務めていたお寺でした。

雪斎は桶狭間の前に亡くなっていますから、その弟子あたりと戦略を練ろうとしていたのかもしれません。

しかし、さすがに信玄のほうが一枚も二枚も上でした。

既に今川家の重臣にまで「氏真を見限ってこっちにつけば、悪くはしないよ」と調略をしかけており、裏切るよう根回しをしていたのです。

そして運の悪いことに、氏真から迎撃を命じられた武将がその一人でした。

出陣はしたものの、あっという間に陣を畳んで引き上げてしまうのです。

こうなると他の武将たちも「どうせ氏真じゃ信玄に勝てっこないし、もう止めるか」と考えてしまい、戦う前に解散してしまう始末。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

源平【富士川の戦い】のごとく、あっという間に戦は終わってしまうのでした。

富士川には、将兵のやる気を挫く妖怪でもいるんですかね。

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味方の不甲斐ない顛末を聞いた受けた氏真は、愕然としつつも急いで駿府へ戻ります。

そして……続きは別記事の【今川館の戦い】に詳細がございます。

恐れ入りますがそちらをご覧ください。

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【参考】
国史大辞典
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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