源義仲・木曽義仲・木曾義仲

源義仲(木曽義仲)/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?

治承8年(1184年)1月20日は木曽義仲源義仲)の命日です。

というと、すぐさま大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における、あのシーンが頭に浮かぶかもしれません。

青木崇高さん演じる義仲が、源義経らに追い込まれ、最後は顔面に矢が突き刺さって終わる――そんな衝撃的なラストでしたが、果たしてあれは史実だったのか?

史実であれば、なぜ、そんな悲惨な終わり方を迎えたのか?

ドラマでは、野性味溢れながら、どことなく純情だったため、滅亡に追い込まれてしまったような。

そんな木曽義仲の生涯を振り返ってみましょう。

 


武蔵で生まれ、木曽で育つ

木曽義仲は久寿元年(1154年)、源義賢の息子として生まれました。

父・義賢は源義朝のすぐ下の弟で、母は遊女だったといいます。

このころ義賢は、武蔵国の大蔵館(現・埼玉県比企郡嵐山町)を拠点としており、義仲もここで生まれたと考えられています。

源義経同様、義仲の幼少期についての詳細は今のところ不明です。

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一般的には、

「源義賢が、源義平(源義朝の長男)に関東で討たれた際、まだ2歳だった源義仲を殺すことにためらった武将が、義仲の乳母の夫・中原兼遠(なかはらのかねとお)の元に送り届けた。

その後は信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)で育った」

とされています。

そのため通称が「木曽義仲」や「木曽冠者」などになるんですね。

若い頃には「木曽次郎」と名乗ったこともありました。

異説もあります。

「義仲が育ったのは東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)である」

というものや、

「諏訪大社の下社の宮司・金刺盛澄に預けられて修行していた」

というものです。

中原家と金刺家は、挙兵当初から義仲に従っていたので、後者の説には信憑性もありますね。

どちらかが嘘というわけではなく、一時期、義仲が諏訪大社へ修行に行っていたことがあって、縁ができたのかもしれません。

この辺は新史料の発見を期待したいところでしょう。

なお、義仲には異母兄の源仲家がいます。

が、仲家は以仁王に従軍し、宇治で討ち死にしていましたので、一度も会ったことがなく、お互いの存在すら知らなかったかもしれません。

武士のならいとはいえ、何とも哀しい話ですね。

 


以仁王の令旨に従い挙兵

そんなこんなで都から遠い地で育った木曽義仲。

治承四年(1180年)、叔父・源行家によって以仁王(後白河天皇の第三皇子)の令旨が伝えられたことで挙兵します。

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義仲は、信濃の武士に令旨を伝えて兵を集め、まずは市原合戦にて信濃北部の源氏サイドの勢力を救援、かつて父・義賢が基盤としていた上野に向いました。

しかし、既に関東では源頼朝が勢力を伸ばしていたところ。

無用な衝突を避けて信濃に戻っています。

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この時点ではそういう発想もあったんですね……。

翌養和元年(1181年)6月、義仲は木曽衆・佐久衆・上州衆など3000騎を集められるほどに成長。

信濃や越前などで連戦連勝し、その名は上方にも聞こえていたようです。

なぜかというと、この翌年である寿永元年(1182年)に、以仁王の遺児・北陸宮が北陸に逃れ、義仲の庇護を受けるようになっていたからです。

名前が知られていなければ、皇族に頼られることもないはずですしね。

 


平家からも頼朝からも睨まれて

木曽義仲が意識したのか、それとも自然の流れか。

以仁王の遺児を引き受け、世間にその名が広まることは、同時に新たな敵を産むことに繋がります。

というのも、彼の行為は「以仁王殿下のご遺志を継ぎます」と宣言したと捉えられても仕方のない状況。

いかに皇室の血を引く源氏とはいえ、地方育ちの義仲によるこの行動は、平家と源頼朝の両方を強く刺激することに繋がってしまいます。

平家は、以仁王と敵対していたので当たり前のことです。

では、なぜ同族の頼朝まで鼻息荒くなってしまうのか?

実は、頼朝と敵対して敗れた志田義広と、頼朝から追い払われた源行家という二人の親族が、義仲の下に身を寄せていたのです。

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頼朝としては「平家を倒すためには、源氏一族の統率が不可欠。そのためには、肉親であっても厳密に接していかねばならない」という行動原理で動いています。

情に流されたようにも見える義仲の行動は解せませんし、許せません。

結果、義仲は平家からも頼朝からも敵とみなされ、二方向から攻められることになってしまうのです。

 

嫡子・義高を頼朝の長女・大姫に差し出す

さすがに「これはマズイ!」と気付いた木曽義仲。まずは同族・頼朝との和解に動きます。

嫡子・源義高を頼朝の長女・大姫の婿にするという名目で鎌倉に送ったのです。

事実上の人質です。

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もっとも、大姫がその後、義高を偲んで生涯結婚を拒んだことを考えると、当人同士の仲は決して悪くなかったのでしょう。

とりあえず頼朝との関係を改善した義仲は、倶利伽羅峠の戦いなどで平家軍に対して勝利を収めて上方へ向かいます。

また、道中でその武力を盾にし、比叡山延暦寺へ協力を求めました。北陸方面から京都へ入ろうとすれば、延暦寺の横を通ることになりますので。

このとき義仲が延暦寺に送った手紙がなかなかオラついておりまして。

「もしも平氏に味方するなら、俺達はお前らと戦をすることになる。その場合、延暦寺はあっという間に滅亡するだろう」(意訳)

交渉(脅迫)は無事成功し、義仲は叔父・行家とともに入京。

この時点では、多少の内輪揉めや言動の物騒さ以外に問題はなかった……ともいえますが、この後からだんだんキナ臭くなってきます。

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