秋月悌次郎

秋月悌次郎/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎~会津の頭脳をつなぐ老賢者とは

小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、熊本の学校で印象的な漢文教師に出会いました。

穏やかな老賢者とでも言うべき佇まい。

不思議なことに、彼が発するたった一言の言葉で、血気に逸る生徒たちも気持ちを静めることができるのです。

剛毅、誠実、高潔――。

「聖なる老人」「神のようだ」とハーンが回想するこの教師、かつて会津藩の俊英として様々な困難と向き合ってきた人物でした。

若き日は、藩内でも屈指の秀才として知られていた、その名は秋月悌次郎

読み方は「あきづきていじろう」――明治33年(1900年)1月5日に75才で亡くなるまで、信念を貫いた人物でした。

 


日新館の秀才・秋月悌次郎

秋月悌次郎胤永(あきづきていじろうかずひさ)は文政7年(1824年)に誕生。

会津藩士・丸山四郎右衛門胤道(かずみち)の二男にあたります。

丸山家は、保科正之の代のころからの家臣です。

正之に従い、山形を経て、会津に移住した由緒ある家柄。

家督を継ぐ長男以外は別の姓を名乗っています。

そのため、悌次郎と弟は「秋月」姓なのです。ただし、他家の養子となったわけではありません。

会津藩士の子弟は6才から9才にかけて、

「什 (じゅう)

と呼ばれる少年グループに所属します。おそらくや悌次郎も入ったことでしょう。

「ならぬことはならぬ」

この言葉で知られる「什の掟(→link)」は、少年グループの大切なルールでした。

会津藩士の子弟として、彼は10才で藩校日新館への入学を果たします。

※以下は日新館の考察記事となります

日新館
授業中でもケンカ上等だぁ! 会津藩校「日新館」はやはり武士の学校でした

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日新館は会津藩の藩校。

漢文から弓馬刀槍の武術まで、様々な分野を学びます。

水練(水泳)用のプールだけでなく、当時、日本でも二カ所しかなかった天文台等も備えるという、充実した施設でした。

日新館天文台跡/photo by Mukasora wikipediaより引用

漢文を習い、メキメキと力をつける悌次郎。

儒教の経典をおさめる素読所を優秀な成績で修了した者は、講釈所に進学できます。

更に、そこで優秀な成績をおさめれば、江戸留学のチャンスが与えられます。

悌次郎はこのエリートコースを着実に、しかも他人より早く歩みました。

会津日新館の秀才から、全国屈指の秀才へ――その階段を駆け上がったのです。

 


昌平坂学問所のトップ

天保13年(1842年)。

悌次郎は19才で江戸に遊学します。

それから5年後、23才で昌平坂学問所(昌平黌)書生寮に入学しました。

「秋月くんっていつ寝ているの? いつ見ても勉強しているよね!」

周囲にそう驚かれるほど、ともかく勉強、勉強という取り組みぶり。

昌平坂学問所は、現在の東京大学の源流でもあり、当時トップクラスの教育機関です。

そこで脇目もふらずに学問に励み、31才で舎長にまで上り詰めました。

当時の教育機関ナンバーワンですから、これはすなわち日本一の秀才ということですね。

悌次郎は舎長を三年間つとめます。

ラフカディオ・ハーンが感服した学識も、この日新館時代と昌平黌で身につけたものでしょう。

また、会津藩から出て他藩の人々と交流したことも、彼の財産となりました。

会津藩に戻った悌次郎は、藩命により西国諸国を見て回ることになります。ここで得た知遇も、後の人生に影響を及ぼすことになるのです。

 


薩摩藩との同盟に尽力

もし、このまま平穏に歳月が流れていたら……悌次郎は、きっと会津藩出身の秀才として名を残しただけであったことでしょう。

しかし時代は大きく動き、会津藩も厳しい情勢に巻き込まれてゆきます。

文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保はまさに火中の栗を拾うような役職「京都守護職」就任を命じられ、上洛します。

悌次郎は藩の公用方として京都へ向かいました。

公家や他藩との交渉役です。かつて江戸で他藩の人々とも交流した悌次郎にふさわしい役目でした。

京都の政局において、当初、会津藩は薩摩藩と同盟していました。

この際に交渉に当たったのが悌次郎と、薩摩藩士の高崎佐太郎(高崎正風)です。

高崎佐太郎(高崎正風)/wikipediaより引用

この時期、西郷隆盛は流刑中であり大久保一蔵(大久保利通)は薩英戦争のため国元にいました。

高崎は島津久光の意を汲んだ行動をとっており、のちに西郷・大久保らの武力による倒幕路線と対立することになります。

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手を組んだ会津藩と薩摩藩は、文久3年(1863)、長州藩相手に【八月十八日の政変】で勝利を得ます。

この政変で、両藩は過激な長州藩士、および彼らに味方していた公卿を京都から追放することに成功。

同時に、薩摩と会津は、長州藩士の憎しみを買い、暗殺の標的にされたとも伝わります。

もしもこの状況が続いたならば、会津藩のその後は違っていたかもしれません。

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