明治・大正・昭和

野口源三郎の功績―大河いだてんで永山絢斗が演じる日本スポーツ界の指導者

名選手、名監督にあらず――。

とはスポーツ界でよく囁かれることで、卓越した運動能力と同時に人を育てる知性や理論を兼ね備えたケースは、例えば日本のプロ野球を見渡してもそう多くはないでしょう。

2019大河ドラマ『いだてん』においては、そんな人物が一人おります。

主役の金栗四三と共に通った東京師範学校で、素晴らしい指導力を発揮したアスリート。

それが、野口源三郎(のぐちげんざぶろう)で、俳優の永山絢斗(ながやまけんと)さんが演じられました。

競技者として優秀。

コーチとしても極めて有能。

そして近代日本において、スポーツ理論の研究と教育において尽力。

野口は、三拍子揃ったスポーツマンでした。

 


体育教員への道

野口源三郎は明治21年(1888年)、埼玉県榛沢郡横瀬村(現・深谷市横瀬)の丸橋家にて誕生しました。

野口は生母を失い、僅か二歳で母方の親戚・野口家の養子となります。

そして高等小学校を卒業。

この先、ちょっと見慣れない漢字が続き、いささか苦しいかもしれませんが、どうぞ読み進めていただければ幸いです。

野口は一年間の代用教員をつとめた後、埼玉師範附設乙種講習科(さいたましはんふせつおつしゅこうしゅうか)を半年で卒業すると、准訓導(じゅんくんどう・当時の教員の一種)の資格を取得し、半年間、准訓導となりました。

続けて埼玉師範第一部を卒業し、高小訓導を経て、東京高等師範学校の文寡黙兼修(地歴)体操専修科に入学します。

金栗と同様の東京高等師範学校(現代の筑波大学)へ入ったわけです(同校の歴史については以下の記事をどうぞ)。

東京文理科大学附置時代の東京高等師範学校/wikipediaより引用

東京高等師範学校(東京高師)――嘉納治五郎が育てた日本スポーツの礎

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ちなみに、当時のエリートコースといえば、

東京府立第一中学校
※現・日比谷高校

第一高等学校

東京大学

こんなルートが一般的でした。

前述の通り、野口は異なります。

幼くして母を失い、養子となり、苦労を重ねながら教育とスポーツへの道を歩んで来たわけです。

この東京高等師範学校で、野口はアスリートとしての才能を開花させました。

幕末期、勝海舟の代わりに西郷隆盛との事前交渉をつとめた山岡鉄舟

その弟子にあたる高野佐三郎の教えを受け、剣道四段になっています。

後列左端が高野/wikipediaより引用

剣道以外には、水泳をたしなみ、水府流水術初段も得ております。

そして東京高等師範を卒業すると、野口は長野県立松本女子師範、松本中学の教員を兼任することとなりました。

 


十種競技に挑む

十種競技をご存知でしょうか?

『いだてん』に押川春浪役でも登場している武井壮さんが、同競技の選手だったことで名前自体は最近知っているという方も増えてきました。

が、中身となるとあまり存じ上げないかもしれません。

文字通り、一種類だけでも大変な陸上競技を十種類もこなすハードなメニュー。

現代のルールでは、以下の通りです。

①100メートル走
②400メートル走
③1500メートル走
④110メートルハードル
⑤走り幅跳び
⑥走り高跳び
⑦棒高跳び
⑧砲丸投げ
⑨円盤投げ
⑩槍投げ

一つの競技を終えただけでも息が上がりそうなものなのに、それを全力で十種類ですからね。

想像するだけで筋肉痛になりそうです。

野口のアスリートとしての名声が高まったのは、大正6年(1917年)のこと。

この前年、野口はストックホルム五輪大会に向けたマラソンの競技会に出ています。

が、そこでは結果を残せず、代表者として選抜されたのが、東京高等師範学校の金栗四三でした。

以降、野口はフィールド競技に変更し、棒高跳びで好成績を残すようになります。

大正6年(1917年)年には、第五回日本陸上選手権で日本記録を樹立したほどでした。

 


大会優勝を機に転身

東京で開催された第三回極東選手権競技大会。

野口は十種競技代表として参加しました。

そして見事に優勝!

これほどまでに優れたアスリートとなれば、当然ながら進路も変わってきます。

彼は松本女子師範と松本中学を退職して、東京高等師範嘱託体育科講師、体強常務委員として勤めることになります。

体育振興のために尽くすこととなったのですね。

体育の振興は、当時の日本にとって悲願でした。

しかしながら当時の日本スポーツ界では、世界に太刀打ちできない現実を当事者たちがよくわかっておりました。

それでもなお参加することに意義がある。

そう考えられていたのが五輪です。

野口は大正9年(1920年)4月、ベルギーで開催されるアントワープ五輪大会に参加することになりました。

 

アントワープ五輪に参加する

日本初の五輪代表として、ストックホルム大会のマラソン競技に出場しながら、途中棄権してしまった金栗四三。

彼はその無念を抱えながらも、日本陸上競技のレベルを上げるため、世界でも通用するものとするため、奮闘の日々を送りました。

金栗四三
日本初の五輪マラソン選手・金栗四三~初の「箱根駅伝」も開催した92年の生涯

続きを見る

その金栗にとって、二度目の挑戦となる雪辱の機会が、アントワープです。

アントワープ五輪ポスター/Wikipediaより引用

日本選手団は、前回明治45年(1912年)のストックホルム五輪よりも選手が増えており、全員で15名。

前回大会から八年のギャップがあるのは、第一次世界大戦による中止のためです。

この日本選手団に、野口も含まれておりました。

日本がメダルを獲得する可能性がないと、派遣する側もわかっています。

大会を肌で感じて、のちの指導に生かすことのできる人物を意識して先発されていたのです。

嘉納治五郎が目を付けたたけのことはあり、野口はまさに適任者でした。

海路アメリカ経由で、目的地のベルギー・アントワープを目指す道のりは、ストックホルム大会の時よりも恵まれていました。

アメリカで選手団は、ゆっくりとスポーツ先進国視察も果たしています。

シベリア鉄道で苦労しながらヨーロッパを目指し、疲労を抱えたまま大会に挑まざるを得なかった、そんな金栗の苦い経験から改善されたのでしょう。

五輪初挑戦のときよりも、ずっと改善された環境であったのです。

野口は、十種競技選手、主将、旗手の三役をつとめました。

競技での結果こそ12位とふるわないものでしが、これはひとつの基準に過ぎません。

野口はじめ選手団は、アメリカ、イギリス、スウェーデン、ドイツ、フランスのスポーツ界視察という経験もできました。

感銘を与えたようで、野口も金栗も女子へのスポーツ推進の重要性を痛感しています。

限られた者だけではなく、国民を通してスポーツを愛好することこそ重要であると痛感できたのです。

こうして世界に通用するためのスポーツを実感することができた野口。

「晴れの舞台に立っておきながら、このように敗北したと宣言することは、決して心地よいことではありません。しかし、スポーツを愛好し、日本のスポーツ振興に尽力するという観点からすれば、偽ることなく公表して、日本の現在の力を知らしめることは重要なことでしょう」

野口はそう語り、日本が進むべき道を示すようになります。

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