天正元年(1573年)8月28日、浅井長政の居城である小谷城が落城しました。
浅井氏が滅びるこの合戦の結果、運命が劇的に変わった意外な人物がいます。
海北友松です(かいほうゆうしょう)。
武家としての生き方を望みながら、絵師として名を残した、友松の生涯を振り返ってみましょう。
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海北友松は浅井氏家臣の出だった
海北友松は、お父さんが浅井家の家臣でした。
三男とも五男とも言われており、食い扶持を減らすためでしょうか、幼少のころから寺に預けられています。
そうこうしているうちに、浅井家が滅亡。
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友松は父や兄たちが皆死んでしまったため、家を再興するため40歳で還俗したといいます。
しかし、お家再興はそうそううまくはいきません。
友松は歯噛みし『何とか実力者と交流を持つための方法はないか?』と考えました。
そこで思いついたのが、連歌や絵画などの文化的な技術を身につけ、名のある武将たちと知り合うきっかけをつくることだったのです。
友の亡きがらを奪い取るカブキぶり
彼は当時広まりつつあった「茶の湯」にも親しみ、明智光秀の家臣・斎藤利三(さいとうとしみつ)などの武将や東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)といった僧侶と親交を結ぶことができました。
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特に利三とは仲が良かったらしく、光秀が滅びた後は処刑された利三の遺体を「ダチを返さんかい!!」と槍を振るって奪い去り、手厚く葬ったという説もあります。
芸術修行もしたとはいえ、やはり元は武家ですから、武家として家を再興したい――。
どうしようかと再び悩む友松に、決断させたのはその頃天下人になっていた秀吉でした。
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「お前、絵を描くほうが向いてそうだからそっちに集中しろよ」
秀吉が友松の気持ちを知っていたかどうかはわかりません。
が、皮肉なことに手段が目的になってしまいます。
友松は納得いかなくても、相手が天下人ですからその命令には逆らえませんでした。
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