1631年7月6日(寛永8年6月7日)は会津蘆名家・最後の当主だった蘆名義広が亡くなった日です。
保科正之や松平容保など、松平一族の本拠地として知られる会津――。
古から東北の玄関口として知られており、鎌倉時代以降は、佐原義連(よしつら)が源頼朝から拝領したのをキッカケに、この会津地方は蘆名家の領地でした。
詳細は、以下の記事に譲るとして、
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戦国期に入り、蘆名盛氏が16代当主になると同家は躍進、東北エリアでぐいぐいと存在感を増していきます。
もしも伊達政宗が盛氏と同世代だったら?
やられていたのは伊達家のほうかもしれない。
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そんな存在感すら有していたのですが、天正8年(1580年)に盛氏が亡くなると、蘆名家は滅亡への坂道を転げ落ちていきます。
盛氏の死によりパワーバランスが揺らぎ、チャンス到来した大名がおりました。
それが政宗の父・伊達輝宗でした――。
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蘆名のライバル田村家から迎えた嫁の愛姫
伊達輝宗は、蘆名盛氏の息子・蘆名盛興の義兄でした。
盛興正室の彦姫が、輝宗の妹だったのです。
この輝宗宛てに、義弟の盛興からではなく、妹・彦姫から書状が出されていたことが確認されています。
蘆名を襲う異変をその手紙から察知したとしてもおかしくはない。
智謀をフル回転させて、チャンスを掴みにいく輝宗。
輝宗は、妹の嫁ぎ先・蘆名をバックアップするのではなく、伊達家のものとするつもりだったのか?
その痕迹は、婚姻戦略に如実に現れます。
嫡男・伊達政宗の正室を田村家から迎えたのです。
愛姫として知られる彼女ですね。
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愛くるしい名前とイメージ、坂上田村麻呂の子孫という経歴が注目される愛姫ですが、蘆名のことを考えると、また別の要素が見えて来ます。
【愛姫の両親とは?】
父:田村清顕
母:相馬顕胤の娘
→蘆名家にとって田村家はライバル
つまり、伊達家にとって田村家は
【敵(蘆名)の敵(田村)は味方】
という図式になり、息子・政宗の婚姻そのものが蘆名家にとって大きな牽制となりました。
フィクションの輝宗は、政宗と対比してなんだか頼りないお父さん像で描かれがちですが、史実においては違います。
彼は賢く逞しくしたたか。
婚姻関係もフル活用できる抜群のセンスを持ち合わせておりました。
輝宗、傾いていた最上家から妻を娶る
一方、輝宗自身の正室・義姫は、最上義守の娘であり、最上義光の妹でした。
【長身の美女で、文才抜群の器量良し】
当初、最上家では娘を嫁がせるため、猛烈プッシュをかけてきました。
とはいえ、そこは頭脳明晰な輝宗です。
そんな表向きの売り文句に釣られて正室を迎えるほど甘くはありません。
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輝宗と義姫の祝言とは、奥羽戦国史の新局面が到来したことを告げる「ターニングポイント」でした。
伊達家と最上家の関係が五分五分かつ非常に強固なものとなったのです。
実はこれ以前の最上家は、伊達稙宗を相手にした【永正長谷堂合戦(1514年)】で大敗し、伊達家の傘下同然となって家は傾いておりました。
武力は減少する一方。頼るは、足利一門の血統だけという、危なっかしい状態に落ちぶれかけていたのです。
そんな中、第10代当主・最上義守が、伊達家の【天文の乱】に乗じて踏ん張った。
周囲に存在感を見せつけ、伊達家の傀儡政権から独立勢力になるまで順調に息を吹き返していたのです。
奥羽探題ブラザーズ 輝宗&義光!
そんな義守の嫡男にあたる第11代当主・最上義光は、鉄棒をぶん回しながら頑張る、やる気満々の人物でした。
元気バリバリでかつ実力もあり、勢力としては上り調子。
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輝宗としては、義光時代の初期こそ対立していたものの、強引に押さえつけるよりもコンビになった方がメリット有りと察知します。
その陰には、才知あふれる義姫の姿もありました。
年齢的に近く、たった2歳差である輝宗と義光。
彼らは時流を読み取り、こんな計画を立てていきます。
「なぁ、羽州探題(=義光)よ。上方の連中は東北にどう来ると思う?」
「正直、やばいな。でも、ここは簡単に降るのではなく、ある程度、意地を張ってよい場面でない? 奥州探題(=輝宗)よ」
かくして組まれた奥羽探題の義兄弟コンビ。
義姫を間にして誼を通じ、早い段階から織田信長に鷹や馬の贈呈などをして渡りをつけておくのです。
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足利の時代は終わり――そう読み解き、中央政権の統一という来たるべき日に備えて、東北での確固たる存在となろうとしていた二人。
「伊達領は海が遠いし、太平洋側は敵が多すぎる。情報網は、最上経由でよろしく。最上川の整備も頑張っているもんね。その辺よろしく頼むわ」
「おうよ、これからは外交の時代よ!」
とまぁ、ベタな会話にしてしまいましたが、この二人は実にスマートではありました。
ただし、問題がないわけでもありません。
「は? なに、伊達家が勝手に奥州仕切るつもりでいるわけ。ムカつくわ」
「最上もだよ! 出羽を自分の庭扱いすんな。調子に乗りやがって」
周辺勢力からすれば義光も輝宗も単なる若造コンビでしかなく、実際、伊達領の南・蘆名では、反伊達に向けた動きが活発化するのです。
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