これを口先だけでなく、日頃から実行していたことが周囲の支持を勝ち取り、信長を織田家の分家筋から大大名にまで押し上げていきました。
しかし、何事にも例外はあります。
天正二年(1574年)6月5日、こんな知らせが信長に届きました。
「小笠原長忠が入っていた高天神城(掛川市)に、武田勝頼が攻め寄せ、城を包囲された」
小笠原長忠は、正しくは小笠原信興という説や、はたまた別人説もあって判然としません。
ここでは底本に従って「長忠」で進めさせていただきます。
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難攻不落の要害・高天神城
長忠はもともと今川家の家臣。
徳川家康が遠江を領有してからは徳川家に仕えるようになりました。
そして、対武田家の最前線にあたる高天神城の城主に任じられました。
長忠は【金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)】や【姉川の戦い】など、徳川の同盟相手である織田家の大きな戦に参加したことがあり、信長もいくらかは知っていたと思われます。
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また、【三方ヶ原の戦い】などで、武田信玄率いる武田軍とも戦っており、経験も実力も十分に兼ね備えていた武将でしょう。そうでなければ最前線の高天神城を任されたりはしませんよね。家康からの信頼も上々だったと思われます。
この一報を受け、織田信長・織田信忠親子が岐阜から出陣しました。
6月14日のことです。知らせを受けてから約10日も経っており、信長にしては腰の重い印象を受けます。
理由はわかりません。
この年の5月はほとんど京都で政務などをしていたので、その間に溜まっていた岐阜の雑務処理でもしていたのでしょうか。
高天神城は難攻不落の要害として知られておりましたが、にしてもかなりノンビリしております。まさか武田軍との直接対決を恐れて……?
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「長忠が武田方に寝返りました!」
途中、17日に三河の吉田(豊橋市)へ入り、19日には今切の渡し(浜名湖の渡し船)に到着。
一応、地図で確認しておきますと……。
左上の黄色い拠点が岐阜城で、真ん中の黄色が新居関(今切りの渡しがあったところ)。そして右下の紫色が高天神城となります。
14日に出発して19日に到着ですから、行軍速度として極度に不自然なところはありません。ただ、速くはない。特に迅速モットーの信長にしては……。
するとここで、思わぬ知らせが入ってきます。
「長忠が武田方に寝返り、勝頼を城内へ引き入れました!」
救援する相手が寝返ってしまうというまさかの結末。織田軍は引き返すより他にありません。
まったくもってこれは信長らしからぬ展開であり、似たような失敗を2回もしております。
前回は、同年2月。
武田方に内通した者によって明智城を奪われているのです(107話)。
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織田家の城と徳川家の城という違いはありますが、同盟を組んでいて共通の敵にあたっている以上、信長としても家康としても歯がゆいことだったでしょう。
ただ……これを「信長が珍しく体たらくだった」と決めつけるのも、おかしな話なのかもしれません。
勝頼を甘く見てはいないか?
偉大なる武田信玄の後を継ぎ、そして同家を戦国大名としては終わらせてしまった武田勝頼。ときに凡将の烙印を押されてしまうときがあります。
しかし、実際はどうでしょう。
高天神城は断崖絶壁を備えた峻険な山城であり、落城させるのは容易ではありません。しかも城主の小笠原長忠は、なかなか骨のある武将だけに任されてもいたはずです。
それを短期間で落城させたのです。
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むろん、この時期の武田家には、まだまだ信玄時代からの老練な家臣がいましたので、その経験も大いに活きたことでしょう。ただ、老練な家臣を若い当主が使いこなすのは非常に難しいことでもあります。
要は、勝頼の”戦国大名としての資質”は決して低くはなかった――実際に、信長公記にも信長の言葉として「勝頼は強い」という趣旨のことが記されていたりします。
織田家には、北陸の一向一揆衆や石山本願寺をはじめ、多くのエリアに敵がおり、絶えず武田家対策に集中できるワケではありません。
確かに徳川家は、背後を織田家に守られており、武田家に集中することはできます。しかし、自分たちだけで太刀打ちできるか?というと、不安も大きかったでしょう。なんせ三方ヶ原の戦いで悲惨な目に遭ったばかりですしね。
となると、信長と家康はリーダーとして、より一層連帯を強め、配下の者たちにアピールせねばなりません。
そのため、信長自身が出向いてくれた礼を言うため、徳川家康は吉田までやってきます。
次回はその時のヤリトリの話です。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
『戦国武将合戦事典』(→amazon)