江戸時代の文化人や学者は、意外とアグレッシブなタイプがたくさんいます。
例えば老齢にして旅に生きた松尾芭蕉や、地図を作った伊能忠敬、外国人へも臆することなく対話した新井白石などがそうでしょう。
今回注目の高野長英は、彼らとはまた違った意味での行動力を持っていたのですが、嘉永3年(1850年)10月30日、自害へ追い込まれます。
いったい何があったのか?

高野長英/wikipediaより引用
その生涯を振り返ってみましょう。
高野長英 実家は水沢伊達氏の家臣
高野長英は、若い頃から自分の意見をはっきりと示す人だったようです。
元々は、伊達家の一門・水沢伊達氏の家臣。
長英は幼い頃に父と死別したため、母方の伯父であり、医者として主に仕えていた高野玄斎の養子に入っています。
これが医術との出会いでした。
玄斎は杉田玄白の弟子だったため、おそらく長英も、何らかのタイミングで養父から蘭学や西洋医学の話を聞いたと思われます。

杉田玄白/wikipediaより引用
まだ見ぬ世界の概念や、東洋医学とは違った知識は、若き長英の探究心や向上心を大いに刺激したのでしょう。
16歳のとき、長英は養父の反対を振り切って地元を離れ、江戸でより多くの医学知識を得ようと試みました。
もちろん、そう簡単には行かなかったようですが、最終的には良い師匠に恵まれました。
杉田玄白の養子・杉田伯元や、日本初の西洋外科医・吉田長淑に教えを受けることができたのです。
シーボルトの鳴滝塾へ
残念ながら長淑とは数年で死別。
それでも高野長英は諦めず、長崎まで行ってシーボルトの鳴滝塾へ入門しました。

シーボルト/wikipediaより引用
翌年には「ドクトル」の称号を授けられ、一人前であると認められたほどですから、その身の入りようがわかるというものです。
しかし、長崎にやってきて三年経った文政11年(1828年)にシーボルト事件が起こり、そのまま九州に留まることは難しくなります。
長英は頭の良さゆえか。
いち早く姿をくらまし、道中で診察や講義をして路銀を稼ぎながら江戸へ。
幕府にしょっぴかれそうなのに、将軍のお膝元に行くあたりがよくわかりませんが、「灯台下暗し」「木を隠すなら森の中」を狙ったのでしょうか。
江戸に戻ったのは、天保元年(1830年)10月ごろだとされています。
それからは一介の町医者として、診察をしながら生理学の研究を続けていたといいます。
幕府を批判
天保三年(1832年)に、日本初の生理学書である『医原枢要』を著しました。
また、ほぼ同時期に渡辺崋山と知り合い、研究の手伝いをするようになります。
それとの関連は不明ですが、このあたりからの高野長英は、少々穏やかならぬ行動もし始めました。
具体的には、天保の大飢饉やモリソン号事件などに対する幕府の失策に対し、著書で大っぴらに批判を繰り返したのです。
確かに、これらの件に対する幕府の対応は、決して上手いものではありませんでしたが、ただ批判しただけでうまくいくわけがないのも道理です。
当然、幕府は長英を要注意人物とみなします。
こうして当局に目をつけられてしまった長英と崋山。

渡辺崋山/wikipediaより引用
天保十年(1839年)に【蛮社の獄】と呼ばれる言論弾圧事件でしょぴかれてしまい、現代でいうところの終身刑が確定します。
しかし、逮捕したのが鳥居耀蔵で、そのやり口が強引だったせいでしょうか。
高野長英も、真っ向から幕府を批判するほどの度胸があった人ですから、そう簡単には引きません。
獄中でも同志に向けて無実を訴える文書を書き、脱獄の機をうかがっていました。
硫酸で顔を焼いた!?
弘化元年(1844年)6月末、牢屋の下働きをしていた男に金を与えて放火させ、切放しが行われたところで見事逃げおおせます。
「切放し」とは、大規模火災などの際に囚人の命を助けるため、一時的に釈放することです。現代の刑務所でも似たような制度がありますね。
といっても、この頃は既に人相書きで高野長英の顔が広く知られていたため、硫酸で顔を焼いて逃げたなんて話も。
想像するだけで痛すぎるのですが……(´・ω・`)
当然、長英の差し金であるということはすぐにバレてしまいます。
幕府批判までならともかく、脱獄と放火は現代でも重罪の代表格。いかに高い志と見識があるとはいえ、幕府としてもそう簡単に逃すわけには行きません。
しかし、長英にも雌伏した期間の分だけ、意地と根性があります。
いったん江戸から逃げた後も、志を同じくする田原藩医・鈴木春山の支援を受け、江戸に再度潜入していました。
この間も翻訳や著作を行っているのですから反骨精神が半端ないですね。
幸い、鳴滝塾での兄弟弟子だった人づてに宇和島藩主・伊達宗城に紹介され、嘉永元年(1848年)2月末までは宇和島にいたようです。ここでも、しばらく蘭書の翻訳に励んでいたとか。

伊達宗城/wikipediaより引用
宗城は蘭学や西洋の文化・技術に高い関心を持っていた人ですから、長英の知識を惜しんだのでしょう。
とはいえ、この時代に翻訳ができる人はそう多くありません。
一年も経たずに長英の噂が幕府に察知され、宇和島を去ることになります。
ちなみに伊達宗城は、シーボルトの娘である楠本イネも引き立てていて、さすが幕末の四賢候に数えられるだけありますね。
またもや江戸で見つかり自刃
宇和島を去った後は再び江戸へ。
名を変えて医者として生計を立てていました。
ずいぶんと度胸のあることですが、既に人相書きが出回っている土地で、名前を変えたくらいでは潜伏の意味がほぼありません。
案の定、三ヶ月程度で見つかり、覚悟を決めて自刃した……といわれています。
頭がいい人なのは間違いないので、一介の学者・医師の立場で幕府を批判しても、意見が受け入れられないことくらいはわかったはずなのですけども……。
正義感や一時の感情で身を滅ぼしては、せっかくの学識が活かせなくて勿体ないですよね。
江戸に戻っているのもよくわからないところです。
宇和島もしくは別の地方で、ただの医者として日陰にいれば、少なくとも命は助かったでしょうに、それでは満足できなかったのでしょうか。
途中から医師でいたいのか、幕政に口を出して世の中を良くしたいのかがよくわからず、迷走してる感も否めません。
幕末は「情熱が強すぎて身を滅ぼした」タイプの人が多いですね。
老中の暗殺計画を自らぶちまけてしまった吉田松陰と何だか通じるところもあるような……。
あわせて読みたい関連記事
-

杉田玄白の知られざる人柄と生涯|なぜ『解体新書』は翻訳出版されたのか
続きを見る
-

シーボルトはスパイか生粋の親日家か? あの事件から30年後に再来日していた
続きを見る
-

シーボルト事件で国外退去&再入国の禁止 いったい何が起きたのか
続きを見る
-

渡辺崋山と蛮社の獄|下書きだった『慎機論』がお咎め受けて自害へ
続きを見る
-

妖怪と呼ばれた鳥居耀蔵|裏切った水野忠邦に報復され20年間もの軟禁生活へ
続きを見る
【参考】
国史大辞典
『朝日 日本歴史人物事典』(→amazon)
高野長英/wikipedia





