西軍にとっては負け戦となる関ヶ原の戦いで、勝者よりド派手な活躍をしたのが島津義弘。
敗者ゆえに後ろへ逃げるのではなく、逆に前進して東軍の中へつっこみ、突破口を開いた――ご存知【島津の退き口】の主役として今なお勇名を馳せている。
関ヶ原で負けて逆に敵陣へ突撃! 島津の退き口はなぜ成功できたか?
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しかしこの退き口、当然ながら島津義弘一人の功績ではない。
むしろ義弘を逃がすため犠牲になった薩摩兵たちこそ、真の殊勲者であり、また、そんな彼らを指揮した将こそ本来なら最も讃えられてしかるべき。
その将こそが島津豊久である。
漫画『ドリフターズ』にも登場し、強靭な武将として知られるようになった豊久。
本連載の著者・鞘ェもんにイラスト作成を進めて貰いながら、豊久の功績を振り返ってみたい。
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父は軍神家久
戦国時代に屈強な薩摩隼人を率いる武将として知られた島津四兄弟。
・島津義久
・島津義弘
・島津歳久
・島津家久
中でも軍神の如き存在だった島津家久が、豊久の父親だった(ゆえに豊久は、義弘にとって甥となる)。
家久のことを軍神と呼ぶのもまんざら誇張ではない。
【沖田畷の戦い】や【戸次川の戦い】など、一族の命運を握る大戦にことごとく快勝し、四兄弟の中では最も戦上手と言える。
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豊久もまた合戦の才覚に恵まれたようで、15才のときに参戦した沖田畷の戦いでは首級を一つ挙げ、秀吉の朝鮮出兵でも義弘と共に複数の作戦で大活躍を果たしている。
そして迎えた関ヶ原の戦い。
薩摩にとっては不本意なことだらけだった。
徳川四天王に追撃され
関ヶ原における島津義弘・豊久の不運はいくつかあるが、何と言っても兵の少なさは如何ともし難いものがあった。
石高60万を超える大国にも関わらず、わずか1,500しかいなかったのだ。
戦の直前にも嫌な思いを味わった。家康が強敵だからこそ石田三成と島左近に奇襲を打診すると、あっさり却下。
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そうかと思ったら、開戦後、程なくして小早川秀秋やその他の武将が西軍に攻めかかってきやがった! 味方で何やっとんじゃ、アホなのか!
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もはや敗戦は濃厚。
後ろに逃げても背後を取られて危険なだけなら、いっそのこと前に出ちまうか……。
かくして義弘は一大決心をして徳川軍の中へ突き進んでいくと最後まで不運に泣かされる。なんと徳川四天王でも最強と目される井伊直政や本多忠勝らの部隊に見つかり、追撃をされてしまったのだ。
もはや全滅は必死か?
そこで用いられたとされる戦法が【捨て奸】である。
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