渋沢栄一は、そもそも大河の主役に相応しいキャラクターなのか。
伊藤博文よりはマシだよね……と冷笑されそうな女遊び。
志士だったり、幕臣だったり、新政府の役人だったり、時の情勢に応じてコロコロと変える態度。
大河ドラマ『青天を衝け』では、岩崎弥太郎ばかりが強欲な商人として描かれておりましたが、史実では、その岩崎とドロ沼の商売合戦をしており、俯瞰して見れば渋沢も岩崎も同じタイプ。
それを1万円札の顔にまでしてしまった財務省・日本銀行・国立印刷局の意図もいまいちわかりませんが、さすがにこれは「人道的な配慮でしょう」という功績もあります。
【東京養育院】です。
渋沢が約50年も院長を続けた同施設は弱者のために作られ、現在にまで続いています。
では東京養育院とは一体なんなのか?
その歴史を振り返ってみましょう。
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明治維新後の江戸はホームレスだらけ
「文明開化」や「富国強兵」など。
歴史の授業で習う明治維新は、日本の近代化に欠かせなかった転換点とされますが、実際は大きな混乱を社会にもたらしておりました。
そもそも【戊辰戦争】は、西郷らが強行した内戦以外の何物でもなく、薩摩藩や岩倉具視も反対していたほどです。
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戦争の結果、当然ながら勝者と敗者は峻別されます。
敗者、つまり旧幕府軍の面々は行き場を失い、経済的にドン底へ。
美談で語られがちな【江戸城無血開城】のエピソードも微妙です。
「江戸が火の海になる寸前だった」ということであり、実際、その後の東北では会津戦争をはじめ、各地へ戦火が拡散し、幕臣や佐幕派の武士だけでなく多くの民衆も苦しみました。
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戦争を含めた急激な社会変革は、江戸を中心に多数の困窮者も生み出してしまったのです。
渋沢に言わせれば「食うものもない、働くところもない」人々が街にあふれ、江戸は目も当てられない状況。
要は、ホームレスだらけ。
さすがに明治新政府も、これではイカン!ということで対策に乗り出します。
そこで目をつけたのが「七分積金」でした。
ロシア皇太子にバレたらアカン!
「七分積金」とは、江戸時代に市民たちが積み立てていた共有金のこと。
明治新政府も財政状態は最悪で資金的な余裕はなく、江戸時代の遺産を救済の元手にしようと考えたのです。
しかし、そもそもホームレスを救済しようと考えた動機にしたって酷いものです。
キッカケは、明治3年(1870年)に来日が決まったロシア皇太子でした。
当時の日本は「欧米に劣らぬ国づくり」を志向していたので、来日する海外の要人には「美しい国、日本!」を見せつけなければなりません。
それが道端にホームレスだらけだったら?
ロシア皇太子に日本が未開国だと思われてしまう――それだけは避けたい!と危機感を抱いたのです。
そこで明治新政府は、当時の浅草で棟梁を務めた車善七という人物に命じ、一時的に困窮者を収容する施設を造りました。
まるで、臭いものに蓋をするようなやり方ですが、ロシア皇太子の来日もどうにか切り抜け、施設を管理していた町会所(江戸時代からの互助会)が解散となると、七分積金を清算するための組織「営繕会議所」が創立されます。
そしてこの会議所に対し、当時の東京府知事(この頃は東京都とは呼ばなかった)大久保一翁は「困窮した市民の救済案」を計画させました。
それが次のような内容です。
・新たに工場を造り、人を雇って仕事を与える
・それでも余る人手に職を与えるべく、日雇い労働を創出
・病気や障害、幼児や老人など、全く働けない人のための収容所を造る
アイデアは全て大久保によって採用。
結果、該当の収容所は明治5年(1872年)に【東京養育院】と名前を改め、現代まで続く福祉施設として第一歩を踏み出したのです。
気づいたら院長に就任
この東京養育院に渋沢が関わり始めたのは明治7年(1874年)。
大蔵省から民間に下った彼は、この年の秋頃、偶然にも「七分積金」の管理を命じられました。
さらには営繕会議所の委員にもなり、名称が東京会議所と改められると、組織の会頭に就任。
東京養育院は営繕会議所の管轄下にあったため、彼が養育院の監督役になったのです。
養育院と渋沢は全くの偶然から始まったんですね。
彼は当時のことを「養育院経営の経験なんて当然ないし、忙しいわが身を考えれば受けないほうが良い仕事だが、『社会のためになる事業』であることは確かなので、院長を引き受けた」と語っています。
彼が唱えた「合本主義」の原理にも則った事業でした。
しかし、喜んでばかりもいられません。
費用は足りず、収容所も酷いところばかり。ついにはこんなことを言い出します。
「精神に異常があったり、知恵遅れだったりする者が混ざっている(※表現として不適当ですが渋沢の言葉を採用)」
「無料の施設とはいえ、これはあまりに心ないやり方だ」
渋沢はまず収容者を「子供・老人・一時失業者」の三種に分け、就職のあっせんや教育など、対象にあったやり方で彼らを保護していきました。
その中でも特に子供の教育には力を入れ
「捨て子たちをどうやったら健康に育てられるか」
の研究に腐心。
最終的には、わざわざ福島の喜多方から評判の保母・瓜生岩子(うりゅう いわこ)を招いて教育法の指導をさせています。
渋沢の積極的な姿勢もあり、この頃には東京養育院も確固たる福祉施設としての地位を築き上げていました。
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