有能な家臣のせいで影が薄くなる主君――というのは歴史ではお馴染みの光景ですよね。
ときには家臣と主君の立場が実質的に逆転することもあったりして。
そんなときは主の性格次第で
「信頼関係を築くことができるか」
「仲違いして殺し合いとなるか」
将来が決まると思います。
1797年(日本では寛政九年)3月22日に誕生したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世もまさしく、そのケースに直面した主君です。
家臣は、あの鉄血宰相ビスマルク。
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あまりにも功績が大きいので、ビスマルクの名前は知っていても、『ヴィルヘルム1世?誰それ?』状態の方も少なくないでしょう。
そんな2人は一体どんな関係を築き上げたのか?
フリードリヒかヴィルへルムばかりの王サマ一家
ヴィルヘルム1世も若い頃は結構過激なこともしておりました。
が、王様になってからは立憲君主制を貫いて、大人しくしていたものです。
そもそも彼は次男だったので、お兄さんである王様が男の子に恵まれれば王位は回ってこないはずでした。
お兄さんはフリードリヒ・ヴィルヘルム4世という人なのですが、彼らの名前が長いわ&ややこしいわで大変なので、もう”お兄さん”とか”兄王”と呼ばせていただきます。
プロイセンの王様はなぜか
◆フリードリヒ
◆ヴィルヘルム
◆フリードリヒ・ヴィルヘルム
しかいません。
この兄王が脳卒中で倒れてしまったのです。それまでは割と評判の良い王様だったんですけど、言語障害をきたしてマトモに仕事のできる状態ではなくなってしまい交代はやむを得ませんでした。
兄王に息子がいなかったため、お兄さんの存命中から「次の王様は弟さんだ」というのはほぼ決定事項だったんですね。
そしてその通りになったのですが、お兄さんは生命維持の点では頑張ったので、ヴィルヘルム1世の即位はなんと60歳を過ぎてからのことでした。
当時の平均寿命からすると「即位したところで何もできないだろう」と思われていたかもしれません。
しかし(本人を含めて?)大多数の予測は外れ。ヴィルヘルム1世は90歳まで長生きます。
昨日お話したビスマルクの大奮戦も、ヴィルヘルム1世が生きていたからこそ。もしも、10年、20年、早く亡くなっていたら、実現できなかったものもあるかもしれません。
ヴィルへルムとビスマルク 仲良くケンカしな
ヴィルへルムとビスマルクの二人は、性格的には合わないところも多かった――しかし、政治や軍事、そしてドイツ統一のための方針については「お互いに助け合う」という理想的な間柄でした。
例えば、ヴィルヘルム1世が即位した後、軍の再編成を巡って議会ともめにもめたことがあります。
このときヴィルヘルム1世はブチ切れ寸前だったようで「お前らが言うこと聞かないならワシは辞める!息子に王をやってもらえ!」と退位の意思を見せました。
上杉謙信も似たようなことやってましたね。退位じゃなくて出家ですけど。
これに対しビスマルクが「私も陛下の意見に賛成です。必ず軍の改革をやり遂げましょう」と言ったため、ヴィルヘルム1世は彼を信用して宰相に任じ、自身の退位も思いとどまったといいます。
ビスマルクもこの時点ではまだ一介の外交官でしたので、ここが出世の糸口になると考えたのかもしれませんね。
2人は、決して馬が合う間柄ではありません。
ヴィルヘルム1世に言わせると
>ビスマルク=「不気味なヤツ」
逆にビスマルクに言わせると
>ヴィルヘルム1世=「腰が重くて困る人」
互いにそうやってディスっておきつつ、仕事においては信頼が築ける関係だったのですね。
というか、ビスマルクが、やっぱりそりの合わないモルトケという軍人ともうまくやっていますので、私情を挟まない仕事人間だったともいえそうですね。
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イタリア統一運動時の3人(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世・ガリバルディ・カヴール)もそうですが、「感情を挟まず仕事を遂行する姿勢」は現代人も手本にできるところがあるのではないでしょうか。
デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争
さて、話を歴史の流れに戻しましょう。
デンマーク戦争・普墺戦争・普仏戦争の三つの戦いを経て、プロイセンは狙い通りドイツ諸国の親分になりました。
「ドイツ帝国」を作り、国内を統一することに成功したのです(詳細はビスマルクの記事で※記事末にリンク掲載)。
南部にあるバイエルンなどとはまだわだかまりも残っていましたが、オーストリアを追い出せて領地も広がったのでまあまあというところでしょうか。
当初、ヴィルヘルム1世は皇帝の位に就くことを嫌がりました。なぜなら……。
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