「人は城、人は石垣、人は堀……」という言葉の印象が強すぎて、城を重視していなかった……?と誤解されがちな武田信玄と武田家。
当然ながらそんなワケはなく、むしろ重要視していたことは川中島の戦いからもわかりますが、
第一次川中島の戦い ポイントは塩田城~信玄も謙信も城を中心に動いている
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それは父の武田信虎とて同じ。
本拠地を躑躅ヶ崎へ移動したのも信虎でした。
甲斐武田氏はもともと石和エリアとの縁が強かったのですが、そこから脱却して京風の街づくりを意識したのです。
直線的な道で東西南北を区画するのに加えて、足利義満・花の御所を模した建物が作られたほど。
しかも、単にミーハー趣味で取り組んだわけではなく、室町幕府との結びつきという政治的配慮も考えるなど、なかなか決断力と行動力に優れた方だったことが浮かび上がり……というわけで、戦国ブギウギ武田三代記vol.3、スタート!
◆前話を読みたい!という方は以下のリンクからご覧ください
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大井攻めで大惨敗!今川に挟撃された信虎は【マンガ武田三代記2】
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引越し
◆元々は敵対していた大井信達(のぶさと)の娘・大井の方を妻とした武田信虎。
最初に生まれた長女は、後に今川義元に嫁ぎ、信玄の姉でもある定恵院です。
躑躅ヶ崎
◆源義光を甲斐源氏の初代として数え、信虎で実に第十八代。
甲斐国には武田の庶流がアッチコッチに点在しており、勢力が分散していました。
甲斐源氏の宗家である武田家当主として信虎は甲府に拠点を持っていきます。
新居
◆永正16年(1519年)8月15日に鍬立式(くわだてしき)が行われ、12月に躑躅ヶ崎館へお引越し。
現代では武田神社となっているその館は、山を背にした甲府盆地の中央北側に位置していました(以下の地図をご参照ください)。
この立地が信玄誕生の地とも密接に関わってくるのですが、それはまた少し先の話にて。
ちなみに、この鍬立式の日に北条早雲が亡くなっています。
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