そんな時代だからこそ趣味や教養などの文化面で造詣を深める戦国武将や大名がいる一方、ド派手なパフォーマンスで政治利用する天下人もいました。
豊臣秀吉です。
秀吉の文化活動と言えば、例えば黄金の茶室をはじめとした、いかにも成金趣味全開の酷いシロモノ。
大河ドラマ『どうする家康』で演じるムロツヨシさんも、かなり派手なイメージがあり、
「ほんまにゲスい奴やでwww」
と笑いたくなるかもしれませんが、果たしてそんな単純なものでしょうか?
例えば、当代きっての教養人であった細川藤孝は、かくの如く語っています。
歌連歌乱舞茶の湯を嫌ふ人 育ちのほどを知られこそすれ
意味としては
「和歌や連歌、乱舞、茶の湯を嫌う人って、育ちのほどがわかっちゃいますよねえ、オホホホ」
ってことですが、我々、庶民からしたらどうでしょう?
この細川藤孝に対しては、憧れるというより「はいはい、あんたは高貴ですよ、リッチなご趣味があってよござんすね」と、嫌味の一つでも言いたくなりません?
ましてや同じ時代を生きた秀吉は、かなり低い身分の出であり、そんな素養もないままに天下人まで未曾有の出世を成し遂げた人物です。
幼少期だけでなく青年期においても、趣味に興じる時間などなく、生きるのに精一杯。
それでも天下人になったからには、粗野なままでもいられない。
そこで秀吉はどうしたか?
本稿では、成金と嘲笑されがちな豊臣秀吉の趣味や教養について考察してみたいと思います。
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【湯治】実は戦国武将の定番
日本全国には、戦国武将ゆかりの温泉地が多数あります。
彼らはなぜ温泉を愛したのか?
実は私、身をもって体験したことがあります。
とある温泉へ向かう途中、転んで足を痛めてしまい、片足を引き摺りながらたどり着き、どうにか風呂に浸かることができました。
それが帰り道では、すっかり痛みが引いており、派手に転んだことが嘘のように歩けたのです。
実際にどれだけ効果があるのか――医学的見地からの見立ては不明ですが、メンタル面にも良き方向へ働くなら、傷ついた将兵が温泉に入るのも納得だと感じたものです。
天下人になった秀吉にとっても温泉は、楽しみの一つだったのでしょう。
天正17年(1589年)の【小田原攻め】では北条軍を囲みながら、なかなか派手にエンジョイしています。
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なんせ相模国には箱根温泉があります。
蛇骨川(じゃこつがわ)の川原に湧く古くからの名湯、秀吉はここに石風呂を作り、将兵と共に湯治を楽しみました。
淀の方も、徳川家康も、伊達政宗も、続々と集まり、快適な湯を楽しみ、現在も「太閤石風呂」や「太閤の滝」として観光スポットになっています。
実はこのとき、上野国(群馬県)の草津温泉にも立ち寄る予定だったようですが、実現しませんでした。
また、秀吉と温泉といえば、有馬温泉も有名です。
天下取りを果たすと度々この地を訪れ、湯治だけでなく、飲んで歌ってはしゃいだと目されています。
なぜならこの温泉遊びに「湯女」という女性たちを用意させました。
白い衣に紅袴をつけ、音楽を奏で歌い、和歌を詠み、垢をすり、性的な接待をする役目があった――そんな伝統の中には、天下人・秀吉の姿もあるということになります。
日本各地に武将ゆかりの温泉地はありながら、ここまで明るくあけっぴろげなのは秀吉ならではの現象かもしれません。
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【鷹狩り】派手なパフォーマンス
大河ドラマ『どうする家康』では、本多正信が鷹の世話に勤しむシーンがありました。
あれは完全な創作でもなく、正信は実際に鷹匠をしていたともされます。
では、まだ織田家中にいた頃の秀吉にとって、鷹狩りとは如何なる存在だったのか?というと、コンプレックスの要素もあったかもしれません。
鷹狩りは大名など富裕層の趣味であり、後に秀吉も日本全国から優れた鷹をコレクションすることに喜びを見出していたようです。
当時の秀吉は関白になるため近衛前久の養子にもなりましたが、前久は鷹に詳しい人物ですから、その影響を受けたとしても不思議ではないでしょう。
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それは政治にまで影響があり、天正15年(1587年)には、こんな保護政策まで打ち出されました。
・鷹が巣を作る山を管理する
・鷹の巣を発見したら褒美がある
・逆に壊すような真似をすれば処罰する
鷹は、奥羽の大名とも関わりが深いものです。
古くから名産地として知られ、伊達家など地元の大名にとっては贈り物の定番。
実際【奥羽仕置】のときにも、各地の名鷹( めいよう ) を確保し、献上するよう命じていました。
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そして、この鷹狩りにおいても、秀吉らしいセンスは発揮されています。
派手な輿に乗り、美麗に着飾った供を引き連れてゆくだけでなく、鷹や猟犬まで飾り立てる。
それだけに飽き足らず、獲物を誇示するように、狐、鹿、猪、ウサギといった動物を棒につけて担いだと言います。
さらには亀や猫まで吊るしたともされ、もはや狩りを超えた何らかのパフォーマンス。
むろん秀吉独特の演出でしょう。
江戸時代における将軍の鷹狩りは、ここまで派手ではありませんでした。
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