復元された平野の御土居

豊臣家 豊臣兄弟

秀吉が京都を守るために築いた「御土居」総長23kmにも及ぶ異例の大事業だった

戦乱で荒廃した京都を守るため、秀吉が築いた【御土居】をご存知でしょうか?

大坂城や聚楽第など。

ド派手な建造物が多い秀吉にしては、なんとも地味な字面ですよね。

実際、各種辞書で「土居」と調べると

・外敵から守る備えとして、城や館あるいは地方政庁の周囲に設けられた土塁(土手・土堤)

というような意味で記されています。

一般的に城や館は壁に囲まれ、さらにその周囲に堀が掘られますが、掘り出した土で作られた防御壁(盛り土)というのが土居のイメージに近いでしょうか。

秀吉の御土居が他の土居と一線を画するのは、京都という都市全体を囲んだことにあります。

そのサイズが途方もない。

◆東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯・上賀茂、南は九条を囲む

◆囲いの総長約23km

◆その外周では幅4~18mの堀が掘られ

◆掘り出した土で土手を築き、その大きさは基底部幅9m×高さ3mとなった

◆土の上には竹が植えられ

◆七箇所の出入口が設置された(それに準ずる出入口も十箇所設置)

【参照】京都市情報館(→link

いかがでしょう。

御土居については確かな史料が無く不確実な部分もありますが、京都という都市全体を囲んでいるだけあって、規模は日本最大。

やはり太閤はん、やることが派手どすわ~。

と思ったら、実はこの御土居、日本の歴代為政者としても異例となる規模の取組であり、豊臣秀吉という人物が単なる成り上がりとして片付けられない、何か深い魅力を感じさせたりもします。

いったい秀吉の御土居とは何だったのか?

その歴史を振り返ってみましょう。

 


京都を「都」にするために

天正18年(1590年)秋――奥羽平定後の豊臣秀吉は前田玄以らと共に京都の街並みを眺めていました。

幾星霜もの戦乱に荒れ果て、東西南北を見やれば湿地や田畑が広がるばかり。

いったい都とは何なのか……そのことを細川幽斎(細川藤孝)とも話した秀吉は、洛中洛外を定めようとしたとされます。

しかし、そのためには何をすればよいのだ。

戦乱で荒れ果てた京都復興のためにできることは?

と、ここで出てくるのが御土居です。

京都が日本の都である以上、この御土居は防御のため必須のものとも思えます。

では、この御土居を構築する前、豊臣秀吉と細川幽斎は何を語ったのか?

中国史の【城郭都市】をヒントにして、私なりに想像してみました。

細川幽斎「われわれは都をめざすとき、“上洛”と申します。この洛陽とは唐(から)の都を由来といたしまする。

唐では都の周りをぐるりと高い壁で囲いまして、その壁より内側を都と為す。その出入りを管理し、治安を維持する。

夷狄や敵どもが攻めてきても、この高い壁が防ぐのでございます。

こうした高い壁を、唐では【郭】と申します。城の周りを郭が囲む。これを都と称しまする。

つまり【郭】のない都というのは、唐からみれば、洛陽からは程遠いと思われかねぬ。

我が国でもかつて【羅城】という壁を築こうとしました。それがどうにもうまくいかず、今日もしも【羅城】があれば、洛外はその外だとわかったことでしょう」

あくまで妄想ですが、当代きっての知識人・細川幽斎であれば、こうスラスラと答えても不思議ではないでしょう。

では一方の秀吉はどう受け止めたか?

豊臣秀吉「たしかに日本の都は囲まれていないな。【郭】……いや、【羅城】とやらで囲うか。ここは新たに名をつけてはどうかのう」

細川幽斎「御意。よき名を考えまする」

そして出てきたのが御土居。

いずれの会話文も全て私の想像ですが、その機能役割を考えると、本質は外していない気もします。

もちろん確たる史料はなく、あくまで中国史を踏まえての推察に過ぎないことをご了承ください。

ただし、中国史に注目したのには理由があります。

秀吉の御土居を考察する上で押さえておきたいのが中国の「城郭」なのです。

 


中国の【城郭都市】とは?

中国の「城郭」とはいったい何なのか。

人気漫画『進撃の巨人』がイメージしやすいかもしれません。

街の中心には政庁があり、その周囲には住宅や商店が立ち並ぶ。さらにその外を囲んでいる高い壁――これが中国の基本的な都市構造です。

中国で作られるアプリゲームは、日本の戦国時代においても、この都市構造を適用しています。

そのため「ウォールマリアで囲われた岐阜」のような、シュールなマップとなってしまう。

逆に、かつて古代日本が国家を築き始めたとき――長安にせよ、洛陽にせよ、巨大な壁に囲まれている中国の【城郭都市】を目の当たりにしました。

これをお手本にして都を作ろう!

【郭】のことを日本では【羅城】と呼びましたが、いずれにせよ、その再現はどうにもなりませんでした。

長安/wikipediaより引用

西安の城壁/wikipediaより引用

まず人口も経済も大差をつけられていて、大規模建設の余力がない。

さらには土の質も異なっていた。

中国の土は、固めて乾燥させるとレンガ状になりやすく、高い壁を作りやすい。

一方、日本では地震も頻発しており、それに耐えうる強度を保てない。

結果、日本ではこんな結論に至ります。

中国のように【郭】――日本式【羅城】で囲むことは諦めよう。

こちらにはこちらに相応しい都市構築があるはずだ!

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