明暦3年(1657年)1月23日は林羅山の命日です。
儒学者として歴史の教科書でも比較的大きく扱われる、この林羅山。
大河ドラマ『どうする家康』にも登場しましたが、劇中の最終盤に一瞬登場するだけで、何がなんだかサッパリわからなかった、という方は少なくないでしょう。
実は「国家安康 君臣豊楽」で知られる方広寺鐘銘事件にも関わるだけでなく、現代日本人にまで強い影響を与えているとも言えます。
徳川家康が重んじ、江戸時代に広く浸透させた【朱子学】の儒学者だったからです。
戦乱の世で荒れ果てた人心を落ち着かせるにはどうすべきか?
日本人の模範的な姿とは、どうあるべきなのか?
こうした重要な思想を広めたことで名高い林羅山。

林羅山/wikipediaより引用
その生涯を、当時の情勢を鑑みながら振り返ってみましょう。
肥前名護屋で藤原惺窩と出会う
林羅山と徳川家康の関係を語る前に避けて通れない人物がいます。
藤原惺窩(せいか)です。
秀吉の無謀な野心が起こした【文禄・慶長の役】は、豊臣政権に大ダメージを与えるだけでなく、家康による天下への道のりも示してしまいました。
この惺窩との出会いを提供してしまったのです。

藤原惺窩/wikipediaより引用
当時、小早川秀秋の御伽衆(おとぎしゅう)であった惺窩。
まだ若く、ヤンチャな一面もあった秀秋でさえ、その教えには素直に従うほどだったと言います。
当時の日本で、最高の知性を持つのは禅僧たちですが、その頂点にいて最新鋭の漢籍を学んでいた(京都)五山の僧ですら、惺窩には圧倒されました。
そんな惺窩は、秀吉の無謀な侵攻に、呆れ果てていたことでしょう。
儒教を熱心に学んでいた彼は、朝鮮の儒学者・姜沆(カン・ハン / きょうこう)と交流しながら、明への留学を目指したこともあります。
いわば当時の天才秀才の類ですから、学問を好む家康が『会ってみたい』と考えるのは自然なこと。
かくして二人は名護屋で面会を果たします。
家康52歳、惺窩は33歳でした。
天下人は儒学者を尊ぶ
藤原惺窩は、二人の天下人――つまり豊臣秀吉と徳川家康に儒教を教えました。
このうち、惺窩に入れ込んだのは、もちろん家康。

徳川家康/wikipediaより引用
入れ込むだけに留まらず、次第に「この大儒学者をなんとしても我が陣営に加えたい」と考えるようになります。
若きころ、太原雪斎のもとで漢籍を読み漁った家康ですから、その脳裏には数多の故事があるはず。
ここで注目してみたいのは劉邦の話です。以下にざっとまとめました。
始皇帝の秦が崩壊してゆく中、ライバルである項羽を倒した劉邦は、日頃からゴロツキ仲間と付き合うような、行儀の悪い人物だった。
諸子百家と呼ばれる思想家を嫌い、とりわけ儒家を敵視。
お行儀よくしろってか! と鼻で笑い、儒者の冠に小便を引っ掛けたことすらある。
そんな劉邦のもとに、酈食其(れきいき)という儒者が目通りする。
劉邦は女に脚を洗わせながら、ぞんざいな態度で面会。
「ジジイよぉ〜! 何しにきたワケ?」
「年長者にそういう態度はよくありませんねぇ」
酈食其は続けて「自分ならば秦軍を降伏させられる」と売り込んできた。
そして酈食其が実際に素晴らしい働きを見せると、さすがの劉邦も目覚める。
“お行儀よく”ってのは、荒くれ者の更生に効果アリだな!
劉邦がそう悟り、儒教は漢代に浸透した。
簡潔にまとめれば
「儒教を学べば、荒くれ者も文明化される」
ということで、実は日本では、家康よりも先にそれを実践した人物がいます。
源頼朝です。

かつては源頼朝、近年では足利直義では?とされる神護寺三像の一つ(肖像画)/wikipediaより引用
家康自ら『貞観政要』の講義を受ける
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれたように、源頼朝が流された当初の坂東武者たちは、忠義も何もない状態でした。
そこで頼朝は、彼らに仏教や儒教倫理を教えながら「どうにか文明化しよう」と考えます。
いわば
「劉邦→頼朝→家康へ」
と伝わるわけですが、現実的には非常な困難を伴います。
頼朝の鎌倉時代から約400年――そのうち直近の約100年間は戦国時代が続き、人心の荒れ果てた日本に儒教を根付かせるのはラクではありません。
中国や朝鮮では、儒教教典の理解度をはかる【科挙】制度があり、官吏の登用にあたって儒教が身につきました。
一方で日本に、そんな機会はありません。
中世で儒教の担い手となったのは、仏典と共にその教養を入手できた禅僧です。
戦国大名の子息たちが禅僧に学んだのは、そうした最新知識を身につけるためでもあり、家康にとっての師匠が太原雪斎でした。
劉邦と源頼朝にあやかりたい家康は、行動に移します。
江戸まで藤原惺窩を招き、『貞観政要』の講義を受けたのです。
『貞観政要』とは、北条政子が我が子の源頼家にも勧めたという帝王学の教科書。

北条政子(江戸時代・菊池容斎画)/Wikipediaより引用
それをわざわざ惺窩に学ぶぐらいですから、自身のブレーンに加えることができたらどれほど心強いか――と、家康が考えるのは自然なことでしょう。
秀吉が亡くなった翌慶長4年(1599年)、家康は伏見の屋敷に惺窩を呼び出しました。
惺窩は家康の姿を見て、ジッと押し黙っています。
一体どうしたことか……?と教えを促す家康に、惺窩は返しました。
「それが師に教えを乞う者の姿でしょうか? あまりに礼を失していませんか?」
実はこのとき家康は、質素な平服を着用していました。
無礼だ、とする惺窩の指摘はご尤もで、反論の余地はありません。
京都に生まれ、誇り高い惺窩は、結局、家康に仕えることは拒み続けるのです。
ならば家康は諦めるしかないのか?というと、天下取り、天下泰平のためにも、それはできません。
そこで救いとなるのが林羅山でした。
新進気鋭の儒学者・林羅山
天正11年(1583年)、京都四条新町の商家である林家に、一人の男児が生まれました。
元は加賀国郷士だったとも伝わる林家。
生まれた男児は病弱であり、それもあってか、日がな一日、書物を読んでいました。
幼い頃より秀才として知られ、文禄4年(1595年)からは京都・建仁寺で仏教を学びます。

建仁寺法堂
後の業績を踏まえると、なぜこの国に生まれたのか?と嘆いても不思議はありません。
儒教の本場である中国や朝鮮なら、秀才は科挙に合格することで、大いなる出世が望めました。
出家せず実家に戻った彼は、ますます儒教朱子学にのめり込んでゆきます。
そして周囲に儒学講義をするようになりました。
すると慶長9年(1604年)、明経博士である舟橋秀賢(ふなはしひでかた)により、彼は訴えられてしまいます。
勅許なしで儒学講義とはけしからん!という罪状。
訴えを受け取った家康は思わず苦笑してしまいます。
「学問とは、競い合って道理が正しいと示してこそであろう。どんな身分だろうと、学ぶというのは結構なことでは?」
22歳の若者相手に大人気ない。家康はそう思ったのでしょうか。
このころ彼は、藤原惺窩のもとで学んでいました。
若いのに突出した理解力である彼に、惺窩は驚き、慶長10年(1605年)に家康へその名を勧めます。惺窩自身が仕官する代わりに、どこか野心家である弟子を推挙したわけです。
「おお、あの若者か……」
家康の中で、新進気鋭の儒者である林羅山の名が、有為の人材として浮上した瞬間でした。
駿府の書庫に潜む臥龍 方広寺鐘銘事件にて飛躍す
慶長12年(1607年)、徳川家康は林羅山を伴って駿府城へ向かいました。
そしてこう告げます。
「剃髪せよ」
剃髪というのは、なかなかの試練でした。
羅山は儒教を重んじていて、儒教『孝経』にはこうあります。
身体髪膚、これを父母に受く。あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。
仏僧でもなければ、頭を剃るということはありえない。親不孝の象徴というわけです。
家康も、それをわかっていて羅山を試したのか。
羅山は剃髪し、道春と名乗ります(本稿では羅山で統一)。
親孝行よりも、忠を選んだとも言えるかもしれません。
家康に文書管理の仕事を任された羅山は、しばらく職務をこなしていると、思わぬ出世のチャンスが訪れます。
秦と敵対していた劉邦に対し、酈食其は「自分の知識こそ事の勝敗を決する」と示し、出世を遂げました。
駿府の家康にとって、大坂城にいる淀殿と秀頼親子は潜在的な敵。果たして羅山は?
慶長19年(1614年)、世に知られる【方広寺鐘銘事件】が起こります。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」/wikipediaより引用
秀吉の始めた方広寺の大仏殿造営は、京都地震や火災により頓挫していました。
それがようやく終わったかと思いきや、鐘銘文が問題視されます。
家康とそのブレーンたちに問題の箇所を指摘したのが羅山でした。
国家安康→家康の諱の間に一字入れて、わざと切っている
君臣豊楽→豊臣を君主として楽しむと読める
難癖をつけているようですが、実際に銘文を考えた文英清韓が「敢えて書いた」と語っている。
飛び抜けた秀才であり、家康にとって“歩く辞書”のような存在である林羅山からすれば、難なく解ける謎解きでした。
結果、この事件をきっかけに、家康は大坂討伐を終え、羅山は名声を確たるものとしたのです。
フィクション作品において、林羅山はこの事件での出番が多い。
【大坂の陣】には欠かせない人物でした。
江戸幕府の儒教思想を確たるものとする
大坂の陣を機にその名を広く知られるようになった林羅山。
家康の諸政策の背景では、羅山の助言が反映されていますが、彼の足跡は、その後の代において確たるものとなります。
嫡男である徳川秀忠とその妻・江は、長男である徳川家光よりも、二男の徳川忠長を偏愛していました。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用
誰が三代将軍になるのか?
そんな争いが起こりそうになったところで家康は江をたしなめ、長子相続を確たるものとしています。
そして羅山は寛永元年(1624年)、家光の侍講に指名されました。
江戸上野忍岡に土地を与えられがのが寛永7年(1630年)で、儒学者としての本領を発揮していくのはまさにこれから。
寛永9年(1632年)、羅山はここに学問所、文庫、孔子廟を建て「先聖殿」と称したのです。
後に昌平坂に移転され、江戸幕府最高学府・昌平坂学問所(昌平黌・しょうへいこう)へ。
各地の藩校の手本となり、学校・孔子廟・文庫という施設が日本全国に建てられてゆきました。

現在の湯島聖堂大成殿
林羅山は、真面目で酒を嗜まず、愛妻家で、学問を好んだ人物として知られます。
徳川の信任も厚く、4代将軍・徳川家綱の代まで仕え、明暦3年(1657年)、最愛の妻が亡くなった翌年に後を追いかけるようにして最期を迎えました。享年74。
林羅山一人では成立しない日本における儒教朱子学受容
林羅山の朱子学は、江戸時代の基礎を築く上で大変重要なものです。
しかし明治以降は、そのことがかえってマイナス評価に繋がったと言えます。
福沢諭吉はじめ、明治以降の人々はともかく儒教を貶しました。
江戸幕府へのマイナス評価もあれば、「脱亜入欧」の意味合いでも貶められました。
「支那だの朝鮮だの、劣等国家が掲げる学問じゃないか! けしからん!」というわけです。要するに差別です。
同じ儒教でも、陽明学は吉田松陰はじめ、幕末維新志士が好んだためにむしろ高評価をされ、一方で朱子学はとかく嫌われました。
平成になっても、そんな風潮は続いていたようで、儒教と特定の国家をまとめ、貶す本が売れたものです。
だからこそ、朱子学を日本に根づかせた林羅山もまた非常な低評価となってしまう。
結果的に【大坂の陣】を勃発させたことも、謀略に長けた悪印象を強化する。
しかし、これには大きな問題があります。
・江戸時代の儒教浸透は、家綱時代以降も続く
【生類憐れみの令】により、日本人に慈愛の精神を植え付けた五代・徳川綱吉。
明・洪武帝の「六諭」を参考にし、『六諭衍義大意』を寺子屋で習わせることにした八代・徳川吉宗。

徳川吉宗/wikipediaより引用
彼らからすれば、林羅山一人により4代までで朱子学が浸透したわけじゃない――そう反論したくなることでしょう。
・停滞は儒教だけが悪いわけでもない
西洋と比べ、東洋の技術革新が停滞した理由は何なのか?
経済的なもの、地理的なものなど、複合的な要因があり、儒教にだけ責任を押し付けられるものではありません。
事はさほどに単純な話ではないでしょう。
・儒教だけが宗教や思想としておかしいわけでもない
儒教には女性や少数民族に対する差別的な思想が含まれています。
しかし、これは何も儒教だけではなく、多くの宗教にある要素です。
それを試行錯誤の末、改善してゆくのが思想というもの。儒教だけに原因を押し付けても問題は解決しません。
・日本だって儒教的な価値観は大事にしてきた
明治以降、西洋思想一辺倒に流されることに、危機感を覚える日本人は当然いました。
渋沢栄一はその流れに乗り『論語と算盤』を出版しています。

渋沢栄一/wikipediaより引用
『教育勅語』に記されているという普遍的な道徳価値観も、もとは儒教の道徳観念です。
あれは儒教道徳を忘れゆく日本人を再教育するための項目として、加えられているのです。
「日本人は儒教の影響なんて克服した!」という論は、どこかバイアスのかかった危うい偏見でしょう。
別にプロテスタント思想や倫理、フランス革命以降の人権思想が広く浸透しているわけでもありませんし。
・差別と偏見の言い訳として利用される
儒教を掲げていた国家として、日本以外では中国と韓国があげられます。
こうした国を見下すために儒教をバッシングする手口はありふれたものです。
しかし、世界的に見れば日本も儒教国家。
これを攻撃すればブーメランとなって自分達に跳ね返ってきます。
中国にせよ韓国にせよ、儒教の悪影響をふまえ、克服することも考えています。それを課題として掲げた時代劇も多い。
それを見て見ぬふりをして貶すより、日本も改善する方向へ舵を切った方がよほど建設的でしょう。
ヘイトのために思想を悪用するのは自らの首を絞めることになりかねません。
・そもそも理解していないのでは?
儒教といえば小馬鹿にするものだとみなし、思想を理解しないまま、曖昧なイメージだけで攻撃するような姿勢を目にします。
福沢諭吉のように儒教を理解した上での批判なら説得力はある。
しかし、ふわっとしたイメージだけでというのはいかがなものでしょう。
儒教朱子学が江戸幕府泰平の世を築いたというプロットは、大河ドラマ『麒麟がくる』にありました。
明智光秀が主として見定めだ織田信長は「麟」を花押に用いていたとされます。光秀は信長の中に、麒麟がくる泰平の世を見出し、仕えることにしたのです。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用
しかし、信長は本当に泰平の世をもたらすのか?
あまりに血を流しすぎる信長に絶望し、光秀は本能寺へと向かってゆきます。
信長を討ち果たしたあと、光秀自身も志半ばにして斃れるのです。
その本能寺の前のこと。光秀は徳川家康に君主としての器を見出したのか。二人は親しげに話しています。二人の姿を燃えるような憎しみの目で見つめる信長の姿がありました。
バックラッシュ的な叩きが目立つ儒教思想朱子学を再検討し、プロットに入れ込んだ高度なストーリー。
泰平の世をめざす光秀をただの妄想家として否定できるかどうか?
そう再考してみるのもよいかもしれません。
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【参考文献】
小島毅『子どもたちに語る 日中二千年史』(→amazon)
小島毅『朱子学と陽明学』(→amazon)
二木謙一『徳川家康』(→amazon)
『徳川家康事典』(→amazon)
『徳川家康―大戦略と激闘の譜 (新・歴史群像シリーズ 12)』(→amazon)
『徳川家康―天下人への跳躍 (別冊歴史読本 92)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他





